名古屋「花いち」

唯一無二。

食べ歩き ,

今まで数万軒の店を訪れた。
だがこんな店は、他にない。
 
すべてにわたって、凛とした気が貫かれて、一分の緩みもない。
それでいて、ご主人と女将さんの心根が優しく、居心地がいい。
ご主人の目利き鋭く、食材が厳選されている。
ごく一部を除いて、仕込みは一切せず、注文してから作り始める。
ここにしか存在しない、古い料理がある。
ご主人が毎日手書きした品書きが美しい。
品書きを肴にして、飲めるくらいである。
器がいい。
ただ良い器ということだけでなく、料理と器が、共生してきたかのような自然がある。
お向こうも椀ものもすべて、盛りつけが整然として、息を呑むような佇まいがある。
いい仕事をしている。つまり包丁仕事が的確で精妙である。
凍み大根やひじき、だついもや油揚げなど、どこにでもある食材から、生きている喜びを感じる料理を作る、
ご夫婦でやられているのだが、息がピタリと合って、互いが何も言わずと黙々と仕事分担し、無駄のない動きをされるている。
その働き姿を見ているだけで、清々しくなる。
料理が一切滞ることなく、スムーズに出される。
どんな料理を追加しても、前の料理がなくなる頃合いに出される。
だから、皿が重なることがない。
住宅街にひっそりとあって、席に座った瞬間に、自分の時間が戻ってくる。
とびきりの締めご飯が、幾つもある。
ああ、まだまだ書ききれない。
だが一番心打たれるのは、料理店に必要な要素が、何一つとして緩みなく、素晴らしいのだが、やり過ぎていないことである。
つまり、こだわりなどという野暮が、一切ない。
器も料理も内装も、一歩引いた、てらいのなさがあって、それが食べる人の心の襞に染み込んでいく。
 
12と14枚目のイワシ煮付けを見て欲しい。
黄金色に輝く、イワシの姿を見て欲しい。
極めて鮮度の高いイワシを、その場で処理し、甘辛く煮付ける。
梅干しも生姜も入れない。
イワシは、生の勢いを感じさせながら、煮汁としっとり抱き合っている。
これぞイワシの煮付けである。
その夜もまた、豊かな時間を運んできた。
 
しお(カンパチ)のミカンたたき」は、青みかんの爽やかな香りが、若き脂に勢いをつける。
「イワシの刺身」は、グッと脂が乗っていて、噛んだ瞬間溶けていく。
「サワラのたたき」は、あぶった皮の香りが胸を焦らし、皮下の部分に色気がある。
「海老と貝柱のみぞれ酢」は、酢の塩梅が見事に決まって唸らせ、「酢味噌」は、サザエ、パプリカ、カリフラワー、百合根、ゲソという取り合わせの妙があり、それぞれの大きさが巧みに計算されている。
「鯛の塩焼き」は、ふっくらと焼かれ、優美な甘みが舌に落ちる。
「塩煎り銀杏」は、焙烙で丹念に、煎られる。
「はんぺん」を頼めば、白身魚をすり鉢であたり始め、絶妙な大きさの牛蒡を入れ込んで、揚げられる。
揚げたての熱々に齧り付けば、魚の優しい甘みが広がって、顔が緩む。
「凍み大根と油揚げ」の煮物は、煮汁が染み渡った大根の美味しいこと。
「するめいかと白菜の沢煮椀」は、するめいかから出た滋味と白菜の甘みが汁に溶け込み、惚れ惚れするほど、おいしい。
「栗とさつまいも」は、甘を入れない芋と栗の取り合わせで、朴訥としたおいしさに、感謝する。
「こちと焼きなすの吸い物」を飲めば、ナスの焼いた香りとコチの品のある旨みが広がって、涙する、
そして締めの数々である。
名物「天むす」は、さいまき海老の揚げたてを、ふんわりと握る。
「卵かけご飯」は、1分半茹で玉子に、かけ醤油は二種類合わせたもので出汁が出すぎないほどに少し混ぜてある。
ご飯は炊きたて、真ん中を少し凹ませて、二色の糸文様が白地に映える、薄口茶碗によそう。
丹念に削った鰹節と塩昆布を添える。
「大根そば」は、桂剥きをし、そばと同寸の細さに切った大根を合わせた温かいつゆそばで、食感の対比に滋養がある。
 
最初に出かけたのが2004年だから、もう18年のお付き合いとなった。
あれからいろんな店に行ったが、このような店は、他にはない。
あえて店名は書かない。
予約は、2024年末まで満席で、「2025年はどうなさるのですか」と聞くと、
「主人ももう歳ですので、どうするかまだ決めていません」と、女将さんはいわれた。