小学6年生(1967年)の夏、祖母に連れていかれた中村屋で、僕は絶句した。
カレーとは、黄色く、どろりとして、豚肉とニンジン、ジャガイモが入っている料理である。ところが目の前の料理はなんだ?
カレーというから頼んだのに、茶色くさらりとして、骨付鶏肉が横たわり、甘苦い、なにやら不思議な香りがする。
恐る恐る食べた。
ひりりと辛い。
カレー史上、飛び抜けて辛い。
だがうまい。
美味中枢をワシヅカミする圧倒的なうまさがある。
大人の領域に一歩踏み込んだような快感もある。
「おいしい、おいしい」。
一心不乱に食べる孫を、祖母は目を細めて見ていた。
中学3年に熱烈映画少年となり、武蔵野館やミラノ座で「イージーライダー」1970年日本公開や「Z」1969年、「明日に向かって撃て」1969年などを片っ端から観た。
一日二、三本というのもざらだったが、そのお金で中村屋にいけると思うと、大いに悩んだ。カレーと映画、どちらの感動を取るか。新宿漫遊黎明記の一大問題である。
高校生になると、「映画とカレーの街」は、「レコードの街」へと変貌する。
輸入盤と海賊盤の宝庫であった西口の「新宿レコード」に通い、一枚一枚眺めながら未知の音楽に思いを馳せた。
オーナー夫婦のウンチクを聞いて、ザッパやファッグスを買い、内なる凶暴を目覚めさせたのである。
最初に買ったレコードは、まだ正規盤が国内で発売されなかった頃に買った「レオンラッセル」のライブブートレッグであった。
大学生でレコード熱はさらに高まったが、新たに「ゲイの街」という要素が加わった。
三光町にあった「マレーネ」で、出世払いと称し、ただ同然で飲ませていただくのが、わが部の習わしだったのだ。
美川健一や中条明も遊びに来る有名店である。
マスターのちびたは、店がはねると朝までゲイバーをはしごして、ご馳走してくれた。
夜明けの定食屋で、うっすらとひげが伸びかけたオカマちゃんが、「これ好きなのよねぇ」と頼んだ、さばの味噌煮の味は一生忘れない。
卒業してレコード会社に入ると、「ロックと酒の街」となった。
西口の新宿ロフトで、ARBやアナーキー、BOOWYに触れ、会社員になってもまだ心の底に凶暴があることを自覚し(錯覚し)、仕事も忘れて熱狂した。
そしてロフト池林房で、日本のロックの明日を、朝まで語り、飲むのであった。
酒も浴びた。
とにかく浴びた。
ゴールデン街のハングリー・ハンフリーで、ミートボールカレーにパンを浸しながら、ズブロッカを三本。
未整備だった南口のバラックの如き「味王」で、「仔袋のにんにく炒め」を肴に招興酒を五本。
区役所通りの大分料理店「とど」で、だご汁をすすりながら、さつま揚げやさつま揚げやりゅうきゅうを食べながら、いいちこを三本。
職案通りの「ムギョドン」では、ホルモンチゲに火を吹きながら、真露を四本。
同僚と二人で次々と飲酒記録を塗り替えながら、記憶を無くし、カバンを無くし、財布を無くした。
こうした数々の恩恵を顧みず、ここ数年は新宿で飲むことが少なくなった。
個性的な店が減ったせいもある。
会員制ステーキ屋の「ジョンダワー」、たった四席の焼肉店「全州屋」など、新宿ならではの雑多性が生み出したヘンテコな店が消えてしまった。
そんな中で最近のお気に入りは、ゴールデン街である。
お好み焼のばるぼら屋や手打ちそばの店など、安くていけていてちょいと変という、新宿飲み屋文化が息づいているからである。
中村屋は定期的に愛用している。
先日も中学一年になった娘と出かけた。
「おいしいっ」。
初めてのインドカリーによって笑顔を浮かべた。
僕は自分のことのように嬉しくて、思わず目を細めた。