「日本料理は旬を食べる料理である」。
とは、よく言われる言葉である。
しかし旬とうたいながらも、高級食材に頼りすぎてはいないだろうか。
我々もそれらに、喜んでばかりいるのではないだろうか。
栗山「味どころ」でいただきながら、そんな思いを反芻した。
おいしいのだが、どこか野暮ったい鰊は、自ら採ってきた木の芽と合わせる。
いつ熊と出会ってもおかしくない山奥で採取した木の芽は、市販のものより刺激が淡く、葉が薄く、柔らかく、ふんわりと鰊に覆い被さる。
加減酢で和えたという木の芽と大根おろし、鰊を一緒に食べる。
するとどうだろう。
鰊は、山の清涼に包まれて、エレガントに変化するのである。
野暮の下に隠していた、色気のある柔肌を少し見せて、ふふふと、微笑むのである。
あるいはワラビをつぶ貝と、出会わせる。
ワラビとの食感を考えて、柔な食感に火を通されたツブ貝は、自らの甘みでワラビの中に潜む野生のエグミを受け止め、朴訥な滋味を滲ませる。
あるいはホッケのつみれと間引きしたメロンを、煮物で出会わせる。
我々は、互いの、一見地味な味わいまさぐっていくうちに、そこに隠された品に気づき、心打たれる。
草の息吹に口腔がさらされる、よもぎ餅。
ワラビの微塵を射込んだ、わらび餅。
いたいけで、繊細な味わいに心が溶けていくヒメマスの刺身。
そのヒメマスと対抗させるように、マッチョな歯触りで圧倒するカワハギ肝添え。
「特になにもしてません」。感動を伝えると、実直そうなご主人は、頬を染めながら恥ずかしそうに答えた。
そう、特になにもしてないのだろう。
しかし自然をこよなく尊敬する彼の「なにもしてない」は、人の無力を表しながらも料理の真味を伝えて、四季への感謝の念を深くする。
真の「ご馳走」とは何かを伝える。
「味道広路」は、そんな希有な店なのである。
日本料理は旬を食べる料理である
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