自分で頼んだものが、イフリートかオシリウスかはわからないが、居酒屋や定食屋に行ってメニューにあると、必ず頼む。
青々しい香りと醤油のうま味、鰹節の香りが一体となった、シンプルな味わいで酒を飲むのが好きなのである。
北浅草の「丸千葉」では、「ほうれん草胡麻和え」を必ず頼むし、梅田の「森清」では、「ほうれん草のしたし」、湯島の「シンスケ」では、「胡麻和え」を頼む。中でも「シンスケ」のそれは面白い。
三代目が考案したもので、女子にも、「わあきれい」と言わしめる「胡麻和え」である。
従来はすりごまと砂糖、醤油に出汁などで仕立てるが、練りごまとメープルシロップ、醤油と水で仕上げている。出汁の旨みをメープルシロップのコクで補っているところが、心憎い。 食べれば、深い甘みが酒を呼ぶ。
真っ黒な胡麻のソースが、てれんと舌にしなだれる感覚がいい。赤い舌を胡麻が黒くし、その中を緑のほうれん草が抜けていく。
そんな口中の光景を一人想像しながら、盃を運ぶ時間が楽しい。
日本料理では、こなからの「ほうれん草のすいとん」と、秋田角館の「じん市」の「鮑の香草焼き ほうれん草」が面白かった。
前者は、自家製おでんの種で、薄茶色のおでんつゆの中で唯一薄緑色でめだっている。
ほんのりと緑の香りが漂う、素朴なすいとんである。
「じん市」の方は、香ばしい色合いに焼かれた鮑に、緑色の香草ソースがかけられ、早く食べろと誘う。
優しく歯が包まれると、生命力にあふれた海の豊饒が、じわじわと顔を出す。
そこへトロトロに火を通された、ムース状のほうれん草の甘みが寄り添う。
秋田の誇るべき海と山の恵みを、見事に皿の上で昇華させている。
鮑の好物であるワカメではなく、同じ葉緑素仲間のほうれん草であわせたところが、料理人の才能ではないだろうか。
こうした、ほうれん草が別の生物の味を活かすという点では、三越前「ボンヌ・ターブル」の料理が、強く印象に残っている。
カシューナッツを餌に育てたという花愁豚に、ほうれん草のソースを合わせた料理である。
豚のローストを、を一口齧れば、雑味のないきれいな肉汁が舌に滴り、そのうまさにのけぞる。
次に、ほうれん草のソースをからめて食べれば、どうだろう。
豚が穏やかな滋味に変わるではないか。豚が草原で草を食んでいる姿が浮かんでくる。
都会にいながら、自然のただ中へと運ばれる。人の手をかけながら、自然に近づける。
そのことをシェフは念頭に置いたのだろう。真の意味の自然な味わいが、五感を刺激し。都会生活で鈍化した感覚に、養分を与えてくれる料理である。