「精をまして命を長くす」 鮑の魔力。

食べ歩き , 寄稿記事 ,

鮑を見けたら、決して手を差し込んで剥がそうとしちゃいかん。必ずナイフを突っこみ、素早く剥がす。でないと手を挟まれたまま、ずうっと海の底にいることになる」。
鮑の強力な吸着力を説く、民宿の親父の言葉を忠実に守り、我々は鮑を採りまくった。

収穫は一人一個と、採りまくったというにはいささか大げさだが、二十年前の隠岐島には、素人でも難なく採れるほど、海底にはごろごろと大物のクロアワビがいた。
岩場に揚げると、夏の日ざしに射抜かれて鮑は激しく悶える。

一説では、鮑の語源は海の女根であるというが、確かに、目前の身をよじり悶える貝の肉体は悩ましい。興奮した我々は、即この場で食べようということになり、塩で汚れやぬめりを取り除くこともなく、ナイフを差し込み、ひきちぎって切り込みを入れ、かぶりついた。
すると、高ぶる気を抑制するかのような、清烈な海の香りが口中で爆発した。凝縮した海の生命力が、じわじわと体に染み込んでいく、そんな体感に、皆押し黙ってしまった。

このような味の贅沢を知ってしまったのは悲しい。以来鮑に対して、「どうせ隠岐島の味にはかなわねえや」などと、「知の偏見」を持つようになった。

しかし、そんなちっぽけな偏見をなんなく覆したのが、酒田のフランス料理店「ル・ポトフ」の「鮑のグリエ」である。
皿の上には、3〜4時間クールブイヨンで煮含めてじっくりと旨味を抽き出し、香ばしく網焼きした、黒みがかった濃緑の鮑が鎮座し、煮汁を煮詰めたソースが敷かれている。力を込めることもなく、ナイフがすっと入るほどの柔らかさの身を、分厚く切って口に運ぶ。途端、肉汁が溢れ出た。

それはまさしく、海のエキスを詰め込んだジュースである。貪欲に海藻を食べてきた鮑の滋養が、味覚を越えて本能を刺激する。
「この料理にはぜひこれを」初孫が出されたが、口の中の養分を拭い去るのが惜しくて、酒も飲まず、一心不乱に食べ終えた。

こうして、隠岐島で香りを知り、酒田で滋味を覚え、すっかり充足してしまったわたしは、以来、鮑を食べなくなってしまった。
というのはウソです。高級食材ゆえにあまり食べる機会がないのだ。

毎日の食日誌を読み返してみても、年平均三回しか食べていない。(最もこれでも多いほうかもしれない)
その数少ない機会のほとんどがすしである。

わたしは、トロやうになどの高価な種をすし屋で頼まないが、蒸しや煮鮑は別である。

必ず頼み、おかわりもする。火を通すことによって甘みが増し、柔らかくなった鮑と、はらりと崩れるご飯が一体となって喉に消えていく、あの感覚がたまらなく好きだ。

だからそれこそ、北は札幌「○鮨」(鮑は生で食べるものという地元の強い概念に対して、江戸前の煮鮑をおく、気概のある店だ )から、南は長崎「とら寿し」まで、信頼する店は蒸しや煮鮑がうまい店となる。

東京なら、以前本誌の「見聞録」に書かれていたようなすし屋なら間違いはない。だが何といっても定評があるのは、今まで水貝(生)か煮付けて使っていた鮑を、ご主人が割烹の要領で酒蒸しにし、初めて握ったといわれる、「すきや橋次郎」のそれだ。

山葵がほんのりと透き通るほど薄く切られ、すし飯をくるりと抱いた蒸し鮑の握りは、姿に色香が漂う。食べると、最大限に抽き出された鮑の甘みが、すし飯の甘みと馴染んでいく様に、陶然となる。

陶然となるのはいいが、「すきや橋次郎は値段も一流なので、おいそれとは行けない。より普段着で出かけるなら、仕事を伝承している関内の「次郎」いい。

さて、蒸し鮑の握りの楽しみを知ったら、今度は蒸し鮑を肴に一杯飲りたい、肝も食べたい。と思うのが食いしん坊の常である。

そんな積極的な胃袋をお持ちの方におすすめするのは、早稲田の割烹「松下」と、四谷荒木町の小料理屋「たまる」だ。
どちらも春から夏に用意され、肝を添えて出される。

だが、この二軒が憎いのは、「次郎」同様、江戸時代から「房州の鮑」として名をはせている、大原の鮑を使うことだ。
「千葉の大原の鮑なら、酒蒸しに十分堪えてくれる。大原以外は駄目だね。たとえ水膨れじゃなくても、酒蒸しに堪えない。不思議なものですよ」と、小野二郎さんが「握りの真髄」の中で語っているように、大原の鮑は、火を通してもなお、本領を発揮する。

別にほかの産地の鮑と食べ比べたわけではないので偉そうなことはいえないが、この鮑には、噛んだ瞬間からぐんぐんと旨味が舌の上で膨らんでいく、「旨味の加速感」がある。

同じく大原の鮑にこだわった逸品は、日本橋「てん茂」の「鮑の天ぷら」だ。春のぎんぽうやつくし、初夏の稚鮎、秋の松茸や柿、冬の白魚やくわいとともに、季節を彩るこの店の名物である。

「昔は、お一人に一個揚げていたんですがねぇ、ずいぶんと高くなって」と話されながら御主人が揚げてくれる天ぷらは、一口大の固まりが二個。胡麻油の香りも香ばしい、さっくりと揚げられた衣に歯を立てると、肉に歯がむっちりとめり込んでいく。めり込んでいくのと同時に、ずんっと汁が滲み出る。

軽やかな衣に閉じ込められた、肉感的存在。わたしはそこにいつも、どぎまぎするような艶っぽさを感じてしまう。

このように、鮑は火を通すと風味が豊かになる。

鳴瀬宇平「魚料理のサイエンス」によれば、甘みの強い旨味成分が多く含まれている鮑は、蒸すことにより、熟成が進み、アミノ酸量が増えるからだそうだ。
こんな化学的解釈を聞くと、「火を通した鮑が一番」となってしまうが、あのコリコリした食感も捨て難い、と思いは乱れる。

しかしそんな欲張りな胃袋を満たしてくれる答えが、神戸にあった。

神戸三宮のその名もずばり「あわびや」である。店内には、「あわびの刺身」「水貝」「あわびの丸かじり」「あわびのバター焼き」「あわびのぢごく焼き」「あわび握り」「あわびの肝の塩辛」「あわびのしゃぶしゃぶ」「あわび雑炊」と、あわびの洪水で溢れ、片や水槽では、鮑がぎっしりとはりついてじっとこちらを伺い、出陣の時を待っている。

贅沢な時間への予感に、財布の紐をぎゅっと握りしめ、心は陸に揚げられた貝の如くびびり、よじれる。

だが、「延喜式」(九六七年)に、四十種にも及ぶ鮑の加工品が記されているように、古来より大和民族は鮑を尊び、親しんできたのではないのか、とムリヤリ気をたぎらせ、料理を片っ端から頼む。

その名の通り、包丁目を入れた鮑を丸がじりする料理で、隠岐島を思い出し、網で直火焼きする「ぢごく焼き」を見ながら、体の中の残虐な野性を感じ、「バター焼き」で、鮑の豊潤さに、心を和ませる。そしてクライマックスに、しゃぶしゃぶを迎える。
まずは、昆布と鰹節で取ったダシに、肝を入れて特製ポン酢で食べたあと、薄く切られた鮑を、さっと熱いダシにくぐらせる。
口に近づけると、鮑の香りが優しく顔を包み込む。

それは、食べ手の心を安らげる、純真で寛容な海の香りだ。

さらには、薄い切り身なのに充分汁気がある。あとは取り付かれたかのように、無我夢中で食べ進む。
食べ進むうちに、あるものはやや長くダシにつけ、あるものは半秒だけダシにくぐらせてみる。

すると縦軸に鮑の柔化具合、横軸に旨味の増加を設定した、曲線グラフが見えてくる。

わたしの観察によると、一秒半ほどの火の通しがベストだが、半生のコリッとしたやつ、くたっとなりながらも甘みを出し切っているやつ、いずれもいとおしい。

こうして鮑の魅力を縦、横、ナナメから知ったあとは雑炊となる。

鮑の旨味で溢れるダシの中にご飯を投入し、仕上げに肝の塩辛の汁を少々。鮑の甘みを吸い込んご飯。塩辛の汁の鮮烈な磯の香り。

誰しもが、生きている実感を大声で伝えたくなるような、瞬間だ。

そこには、海からの豊饒なもてなしがある。

わたしは、古来日本人が「精をまして命を長くす」と尊び、熨斗にしてもてなしの心の象徴とした意に、少しふれられたような気がした。