門前仲町に初めて降り立ったのはビフカツを食べるためだった。
駅からすぐのところにあった、年季の染みた洋食屋「浪花屋」を訪れたのである。
擦りガラス入りのドアを開けると、ぷんとラードの香りに包まれた。
白いカバーがかかったフカフカの椅子。
鈍く光る木のテーブル。
無愛想な奥さん。
油とソースが永年かかって染み込んだような、痩せた老主人。
すべてがあるべき場所にあって、微動だせず、昔へとつれ戻してくれる。
質素な店内だったが、辰巳芸者が似合う粋な風情があった。
そんな雰囲気が好きで、この地を愛した泉鏡花や永井荷風の気分で、ずいぶんと通った。
浪花屋無きあと、引き寄せられたのは、安い、うまい、量多いで有名な大衆酒場、「魚三酒場」である。
ここは、大食らいで大酒飲みの僕にとっては、聖地よなった。
喧噪うずまく店内もいい。
そういえば初心者のころに一人カウンターで飲んでいると、サービスのおばさんが、「いか煮頼んだのだれ?」と、皿を持ちながら大声で叫んだ。
ところがだれも手を上げない。
そこでおばさん、たまたま目があった僕に、「これおいしから食べな」と、皿を置いていった。
その瞬間に、いくら金持ちになっても(いまだなる気配はないですが)一生来てやるゾ。と一人誓った。
門前仲町に行くなら、昼から出かけたい。
まずは赤い大門を潜り、深川不動尊の参道、人情深川ご利益通りをそぞろ歩く。
「宮月堂」の揚げまんや「ペリニョン」のショートケーキの誘惑を断ち切って、「筑定」であさりの佃煮と煮豆を買い、「近為」を目ざす。
十種の漬け物による由緒正しきぶぶ茶漬けで、さらさらとお昼をすましたら、ご利益のデパート深川不動尊でお参りを。
次に目ざすは相撲と大神輿の富岡八幡宮。
さらには歴代横綱の名を刻む巨石、横綱力士碑で往年の想いに胸熱くし、都内最古の鉄橋八幡橋や、五十を過ぎて偉業を成し遂げた伊能忠敬像を仰ぎ、五十手前にしていまだ自堕落な日々を少し反省してみたりする。
まだまだお腹は空かない。
三十三間堂跡や力持ち碑を見たあと、大横川を渡り、親水公園の遊歩道をぷらりと歩いて牡丹園をのぞく。
そうそう、四谷階段と縁が深い黒船稲荷のお参りもしとかなくちゃ。などと時間をつぶしていると、空はあかね色。
さあどこで一杯やろうかタイムがやってくる。
いやあ迷いますよ。
「小川屋」のふぐもいいし、ちゃんこ鍋屋「三重の海」のかつおのたたきもいい。
「入三」や「多万村」といった、かつての料亭街にある小料理屋で和んでもよいし、「志津香」の穴子の白焼きも待っている。
イタリアンなら創作意欲に富む料理を安価で供す、「パッソアパッソ」か閻魔堂の裏手で自宅を改造して営む、たまさんの店「たまきあーの」がいい。
フレンチなら骨太の料理を出す「シャテール」で決まり。
などと迷いながらも、大抵は大正十三年から煮込まれた、「大阪屋」の串煮込みをビールで四本ほどやって、凛とした空気が漂う「浅七」に向かう。
そして揚げだし大根、冷やし煮茄子、うざくといった肴で、群馬泉のぬる燗をとっぷりやって、幸せに浸るのである。
酔って路地に出れば、小説「あかね空」のおふみに出会いそうな錯覚に襲われる。
それは、無くなった浪花屋を始めとして、この町にあるどの店も、味に誠実さが染みているからにほかならない。