中央線は人を魅了する。
もちろん一生縁がない人もいようが、はまっちゃう人はとことんのめり込んでしまう。
もっともこの場合の中央線とは、中野から三鷹あたりまで。
この一帯の虜となる人が多いのは、正体が不明瞭だからである。
統一性が無いからである。
ともかく変だからである。
それは、中野、荻窪、吉祥寺というプチ都会の間に、高円寺、阿佐谷、西荻窪という極右の庶民派が挟まっている不思議も要因している。
都会が垂れ流す無関心の隣では、人情が漂っている。
実にちぐはぐだ。
中央線は、明治二十二年に甲武鉄道として発足し、大正八年に吉祥寺まで電化され、大正十二年の関東大震災後に、被災者が日本橋辺りから続々と移住して、急激な発展を遂げた。
だが成長の過程で、中野から吉祥寺間は都会型と下町型に二分されていった。
都会型は繁華街化を放任し、雑多な空気が混沌と渦巻いている。
一方下町型は、移住してきた人々の下町気質が根づいたのだろうか、人間的な街の柄を育んでいこうという意思が、暗黙のうちに、かたくなに守られている。
そのため両者間のギャップは、時がたつほど広がっていくのである。
食にしてもしかり。
高円寺、阿佐谷、西荻窪には、店主の揺るぎなき人生観を反映した、個性的で良質な飲食店が多い。
中でも西荻ほど揃っている街は、東京にはないのではなかろうか。
中野と吉祥寺が束になろうが、新宿が挑もうが「かないませんわ」の町である。 半径七百メートルほどの圏内に、なんともまあ、そそる店ばかりなのですよこれが。
その事実に気づき始めたのは、大学のころだった。
志木のグラウンドに同級生と向かう通り道だったため、待ち合わせては食べ、別れを惜しんでは飲んだ。
一番通ったのは南口のおでん屋「田毎」で、銀座「お多幸」譲りの汁が染みた大根や豆腐の前で、盛んに青い夢を語っていた。
その後「はつね」の誠実なる東京ラーメンに心温められ、「こけし屋」のスープに落涙し、「戎」の前身のもつ焼き屋で煮込みに目覚め、音を立てながら運ばれる、今は無き「藤盛」(閉店)の天ぷらそばに破顔し、大学の先輩でもある「アケタの店」で、プロレスの如き技を駆使したピアノプレイに言葉をなくし、「清正」の蒸し立て酒まんじゅうをほおばっては、「ああ、いい街だなあ」と、人生の幸せをかみ締めるのであった。
いまでも駅に降り立つと、腹が鳴り、唾が溢れ、鼻穴が膨らみ、血糖値が上がる。
さあどこで食べようか。
「博華」で豆腐の煮込みをつまんで、タンメンで締めようか。
「JTスパイス」(閉店)のキーマカリーで発汗しようか。
「真砂」(閉店)の肉汁滴る東海林さだおのローストビーフもたまらんし、「のらぼう」の大地の温もりが伝わる野菜料理に癒されるのもいい。
「ダ・キヨ」(閉店)の自家製ソーセージやピッツァでワインを飲むのもいい。いやいやワインなら「バールス」という手もあるし、「ビア・ヌォーバ」(閉店)のトリッパのペンネもいいゾ。
「坂本屋」の東京随一かつ丼やメンチカツ、「セレスの食卓」のオムカレーも呼んでいる。「一瓢家」のプルコギで焼酎をあおるのも、「雅」の日本酒飲み比べも誘われる。
いやいや酒亭なら「高井」の新じゃが豚バラ煮で一杯やってみるかぁ・・・。
北口だけでこれである。さらに店が多い南口を考えれば、思いは千々に乱れ、難渋、困惑、煩悩、焦燥、錯乱。果ては人事不省、心神喪失。
いやあ楽しい街です。