8371番目の夜だった。
35年間営まれてきた店は、閑静な住宅街の中で灯りを落とし、ひっそりと佇んでいる。
「いらっしゃいませ」。いつものように上品な奥さんと優しい目をしてご主人が挨拶する。
流麗な字で書かれた品書きに目を走らせる。
「どれも頼みたい」。この店に来るたびにそう思う。
ヒラメは細く薄切りにされ、くるくると巻いて品のある甘みを噛みしめる。
縦長でやや太く作られたタチウオは、歯が包まれながら、じれったいような甘みがにじみ出る。
スミイカは、厚く四角く、歯に吸いつくような甘みを楽しめる。
数の子松前漬けは、煎ったばかりのゴマと、細く細く同寸に切られた昆布と人参が、味を生かしている。
アワビとゲソ、スナップエンドウとフキ、菜の花の酢みそは、あたりがピタリと決まって、酒を呼ぶ。
浸し豆は、香ばしい干し虎豆で、クリッと噛めば、歯が喜んでいる。
スルメと白菜の静かなうま味は、ひたひたと寄せては返して体を温め、大徳寺納豆を混ぜた塩で食べるアオリイカとほし芋の天ぷらは、素朴な芋の甘みに目が細くなる。
揚げたてはんぺんは、丸いうま味と油のコクが心を沸かし、甘みの抑揚の効いたメバルの煮付けは、心をふわりと包み込む。
だし巻きは、卵の甘みを邪魔しないだしの味わいに、思いやりが滲む。
そして締めは、そばと同じ寸に切った大根そばや、揚げたての巻エビを使った天むすに、お揚げに上品な甘みがそっと染み込んだいなり寿司。
あるいは強餅を入れた、雑炊と来た。
すべての料理に仕事があり、すべての料理はてらいがない。
ああ、なぜこんな店が東京にないのだろうと、来るたびに思う名古屋の夜。
「花いち」にて。