「あんまり見つめないでください。恥ずかしいです」。
カウンター内で、1人料理を作られる上品な老婦人の立ち振る舞いを見ていたら。彼女はそう言って優しい笑顔を浮かべられた。
下町の裏路地で、その店はひっそりと灯を灯している。
食べログの点数は3.0台で、あらゆるガイドブックにも載っていない。
だが、昭和58年創業で、40年間続いている。
実家の家業である手袋屋は、冬しか売上げがない。
収入不安定で、この先フグを食べられなくなる日が来るかもしれない。
なら自分でフグ屋を始めよう。それなら毎日食べられる。
好きが高じてとはよくいうが、手袋屋からフグ屋への転向は、なかなかいない。
旅館屋の娘だった奥さんに料理を作らせ、自分は魚を仕入れる。
そんなことを考えたのだという。
素人が店を始めても、長続きはしない。
だが40年も続くのだから、基本の考えと魚の吟味眼があったのだろう。
さらに他にはない料理を出したのも、よかった。
ヒゲタラ鍋である。
毎日食べているフグに負けない味、それがヒゲタラだった。
深海魚なのでコラーゲンがあり、白味魚なのにしぶとい旨味がある。
入れるものは、ヒゲタラの切り身に、シュンギクと豆腐とシンプルで、つけダレは、醤油にそれぞれが橙を絞ってちり酢を作り、ネギともみじおろしを入れる。
ヒゲタラは、庶民のフグといった情趣があって、飽くことがない。
先日はそこにタラの白子も参戦させた。
食べ終わる段になると、滲み出たコラーゲンで鍋は白濁してくる。
そのまま飲むと塩もしていないのに、滋味溢れるスープとなって唸らせる。
これで雑炊もいい。
だがこの店はそばである。
生そばを白濁したスープに入れ、ちり酢につけて食べる。
これがいい。
ネチっとなったそばにスープの旨味がからみつき、それが勢いよく口の中に飛び込んでくる快感がある。
こりゃあ一人でも来ちまおうかな。