ルマンジュトゥー

老巧練達。

食べ歩き ,

近年いただいたフランス料理の中では、間違いなく1番だった。

一昨年も同じことを書いた。

今回も、皿ごとに頭が揺さぶられ、フランス料理の底見えぬ沼に引きずり込まれる。

端的に文にすることはできない。

強いて一言で表すとすれば、真理であろうか。

うまみをどこまで出すか? 足すか? 香りや食感は? 同調と違和の塩梅は?

すべての料理は、意味を求める。

だが、その正解、真理があった。

自然の摂理に寄り添った料理があった。

「ホワイトアスパラのオランデーズソース、グラチネ」は、ソースのうまさと重さへの正答があって、ハッと胸をつく。

いや例え答えが分かったとしても、こんなに軽やかなソースは作れまい。

分離しないようになるまで3年かかったという、「帆立のムースリーヌ 鳩のビスク」は、ホタテと玉子の優しい甘みが抽出されて、互いの持ち味が明確にわかるのに、丸く一つにまとまっている。

優しさを静かに持ち上げるビスクとフォアグラには、決して自らを突出しようとしない思いやりがある。

「違和感を生むために入れました」というクワイは、特有の食感で、夢と現実を行き来させるのだった。

「うさぎのテリーヌ」である。

これまた完成するまでに何年もかかったという。

ある日うさぎのシヴェをもも肉で作っているときに、コラーゲンがガッシリと固まっていることに気づき、もも肉だけでテリーヌを完成させた。

味は淡い。

だがよくよく噛んでいくと、したたかなうまみが隠されているのを知る。

さらには添えられた、マイクロハーブ、一晩塩をした焼いたキャベツ、そら豆と一緒に食べるとどうだろう。

なぜか味が膨らむ。

さりげないが、豊かな自然があり、目をつぶればウサギが草を食んでいる光景が浮かんでくる。

そんな気分を、ゴマ香に似たニジェールのスパイスが、時折刺激して、印象を深くするのだった。

「エスカルゴと春しめじの煮込み」には、宇宙の不思議があった。

ソースは、春しめじの石づきを、土つきのままフォンドヴォーと出汁を取り、何度もこしたという。

ほのかな土の香りがあるのだが、それがたまらなくエレガントに感じるのである。

そんなことはあるまいと思いながらも、食べるたびに魅了される。

自分の舌が、カタツムリと共に、けがされていない大地に這い、溶けていく。

その時である。

たった一粒だけ乗せられたマダガスカル胡椒をかじる。

瞬く間に意識は、空高く舞い上がり、再び地上へ戻っていくのだった。

「ヒラズズキのソテ、赤ワインとロックフォールのソース」である。

白皿の上には、皮をバリッと焼かれた、堂々たる体躯の魚が鎮座し、周囲には深紅のソースが囲っている。

付け合わせはない。

魚を切って、よくよくソースにまぶして口に運ぶ。

ああ。

ヒラズズキは、香りが上品で心地よいあまみを持つ。

鯛にも似ているが、よりアスリートで、身が締まっている。

そんな魚がソースとまみれると、色気が生まれていた。

フランス料理のデカダンスがあった。

すぐさまワインが恋しくなり、連れが女性だったら口説きたくなる艶が、心を扇動した(あいにく男性だったが)。

ロックフォールの練れた塩気と酸味が、煮詰めに煮詰めた赤ワインのうまみに溶け込んで、我々の心を引き寄せる。

この世から解き放ち、陶然とさせた。

肉料理はシストロン産のセルダニョー、Tボーンである。

骨を下にし、皿の上でそびえ立つ。

噛んで目を丸くする。

シストロン産の仔羊は、上品できめ細かい。

一方ロゼール産の仔羊は、少し野生的で、肉の味が強い。

今まで抱いていたイメージである。

だが今噛んだ仔羊は、猛々しく、命の躍動が迫ってくる。

噛め、もっと噛め、わたしの力を出しつくせと、言われた。

鼻息を荒くし、上気しながらいただくコーフンこそ、フランス料理のダイナミズムである。

もう他の店では仔羊を食べられないかもしれない。

そんな不安を抱かせるほど、強烈な記憶を刻ませるのだった。

楽しくてしょうがない。

今年74歳になられるシェフの話から、気持ちが溢れ出ている。

若いシェフは一人もいず、ワンオペだから、相当にしんどいはずであるが、そんな身振りは微塵も見せない。

古典に根差しながらも、モダンで独創的であり,エロく知的でもあり、たくましさとエレガントが共存しながら、舌が洗われる料理だった。

「新しい料理を考えることが楽しくてしょうがない」

シェフは、そう言って、他意のない笑顔を浮かべられるのだった。