「いやな奴になっちまったなあ」。
京都の割烹「とくを」で鱧を食べながら、自分に嫌気がさした。
落とし鱧は充分にうまく、脂ものって、独特の野性味もある。
ふわりとした食感を噛みこむと、舌の上にのしかかってくる鱧独特のうまみだ。
だが舌は、以前食べたさらにうまい鱧の味と無意識に比較している。
美味を重ねると、昨日まで感動的にうまかったものが普通になってしまう<「知る悲しみ」がつきまとう。
「ま、こんなもんか」と思う、そんな自分を発見していやになる。
十二分にうまいやないか。
で、いきなり「鱧モード」が全開になった。
はしごをした居酒屋、千本の「神馬」でも「鱧の落とし」を食べ
東京に戻って、赤坂の「Y」で、「明石の鱧あります」と聞いては
「鱧の湯引き」を食べ、
福岡のすし屋「S」では「大分の鱧ありますと聞いては、落としを食べた。
「神馬」は、微かに鱧が鱧たるうまみを感じさせ、
赤坂の明石産は、「どこが明石なのでしょう」>という疑問を沸かせ、
福岡の大分産は、「博多で、しかもすし屋で鱧食べるバカ」を実践することとなった。
モード全開のまま帰宅すると、下鴨茶寮の「鱧落とし」セットがお中元で届いていた。
4日連続の鱧を喜んで食べる。
鱧は、クール宅急便で疲れてはいたが、赤坂やら福岡よりはずいぶんと鱧だった。
でも 「鱧って、とりたてておいしいとは思わないわ。なんでありがたがるのかしら」。
母の素朴な質問が飛ぶ。
「いやおいいしいのはもっとうまいんだよ」と流す。
ああ、なんて返し。いやな奴だ俺は。
失意のまま飛んだ大阪北新地。
「えの本」のカウンターで言葉を失った。
焼き霜造りにした刺身を食べて、うなる。
皮の香りときめ細かく柔らかな身の、穏やかな甘味。
品を感じさせるうまみ。
はてこの魚はなんだろう?
太刀魚か?
「鱧です」。
榎本さんがしてやったりと笑う。
骨切りは? なんで小骨がない?
「抜くんです。大変ですけどね」。
骨切りしていないゆえに、鱧のしなやかな肢体が、存分に味わえる、
味わいも異なって、品格と優しさがにじみ出る。
そして、>天ぷら。
その豊満な肉に歯が包まれるや、うまみが緩々と舌に流れる。
上流階級の家庭で育った穴子のような気品の滋味が、うらやましいようなうまみがあって、圧倒する。
「心というものは生きている。生きているものには必ず機がある。機は物事に触れるにつれて発し、感動する場面に遭遇して動く」。吉田松陰の言葉だ。
彼は、この発動の機を与えてくれるのが旅だとしたが、僕にとっては味であり、料理人の技であり感性だ。
「えの本」には、「知る悲しみ」ではなく、「識る喜び」が満ちていた。
5日目の鱧で機は動いた。
うーん。ちょっとまだやな奴だな。