今まで習ったことは、すべて忘れなさい。

これが「料理」というものかもしれない。
いや酒井さんは、料理をしているという意識さえ、ないのかもしれない。
食材が語りたいことに耳を傾け、その意思に従って、少しだけ手伝っているだけですと、おっしゃりたいのかもしれない。
ここには、料理人のエゴから解放された、魚や野菜やキノコの素直な喜びが満ちている。
なにしろ日本料理なのに、一切出汁を使わないのだから。
「今まで習ったことは、すべて忘れなさい」。
北海道で店を始めようと移住してきたとき、ある方から言われたと思う。
日本有数の割烹「招福楼」で修行し、東京支店の料理長までなって、多くのことを学んだというのに、それをなすべて忘れろというのか。
理由を聞くとその方は言ったという。
「理由は言いません。とにかく、すべて忘れなさい」。
それがどういうことなのか、料理を作りながら自問自答の毎日だったという。
ただしこの地に来て、野菜のおいしいことに驚いた。
出汁は料理をおいしくしてくれるが、野菜の持ち味を薄めてしまう。
それゆえ、次第に使わなくなり、もし今使うとすれば、二番出汁を薄めた、淡いもののだという。
さらに醤油さえ使わない。
だが日本料理なのである。
山に入って採取してきた野草やキノコ、信頼おける農家が作った野菜や豆、果物、魚を組み合わせて作る、日本料理なのである。
季節を感じ、旬を生かし、来る客のことを思い作る。
いや季節を整えると言ったほうが、芯を得ているかもしれない。
 
たとえていえば、ひらめと香茸辛煮である。
昆布締めにしたヒラメには、軽く柑橘の汁をかけてあるだけで、何も足していない。
香茸の旨味だけで食べる。
香茸を噛んで20回くらいすると、香りが滲み出て、ヒラメに抱きつき、いやらしくなる。
味と香り情を交わされたヒラメは、脳幹にしがみつき、記憶に刻まれる。
 
例えていえば、蕪、自家製こんにゃく、ししとう、ボタンエビのがんもどきの炊き合わせである。
それぞれ別々に水で炊き、その炊き汁を合わせ、生姜の薄切りを添えただけである。
少しだけ海老油は入っているがわからない。
それぞれを食べ心洗われながら、最後につゆを飲む。
ああ、するとどうだろう。
体中の力が抜けていくような脱力感があり、心が晴れていく。
峻烈な味わいが舌を浄化し、精神を引き締め、一瞬にして全身から淀みが霧散し、光が刺すのである。
北海道栗山町「味道広路」にて