京都「浜作」

京都で冬に感謝する。

食べ歩き ,

京都の料理屋では、海老芋とかぶらが冬のハイライトてある。
決してカニやフグではない。
「浜作」では、何度も海老芋をいただいた。
今宵は、鴨蒸し物との取り合わせだった。
海老芋は、微塵の崩れもなく、掘り出された姿のままに横たわる。
太い部分は、ふくよかに甘く、ねっとりと広がっていく。
細い上部は、噛んだ瞬間に消えてしまう。
太い部分より筋張っているのだか、そのことをまったく感じさせない。
上品な芋のムースである。
「里芋は米の代わりに食べられるので、デンプンを残し、お腹を膨らませなくてはいけない。でも海老芋は高級な芋なので、デンプンを逃すように茹でて、軽やかにしなくてはいけません」。
そう森川さんは言われた。
海老芋は、そこに存在しなかったかのように、 溶けていく。
歯で噛むことなく、舌の上で弄んでいると、ゆっくりと消えていく。
うまく炊かれた上質の海老芋は、そんな優美な時間を持っている。
 
かぶらは、葛のとろみと同化して、甘く囁き、溶けていった。
大地の養分を吸い込んだ柔らかな甘みとほのかな辛味が、口の中を満たし、喉に落ち、細胞に行き渡っていく。
目を閉じれば、無言の平和が訪れる。
「かぶら蒸し」は、「浜作」の初代が京都に店を移してから考案した料理だという。
「かぶらはおろしてから、5分以内に作らなあきません」。
だからこそかぶらの生き生きとした滋養が、舌の上で花開くのだろう。
冬への感謝か、生まれるのだろう。
「ようやく葛をうまく溶くことができました。熱湯だと固まってしまう。冷水だと溶け切らない。その塩梅を見つけました」。
おそらく蕪蒸しだけてなく、何万回も葛を溶かれてきたのだろう。
だが決して現状に満足することなく、より良き明日を探し続ける、職人としての矜持が。そこにあった。
蕪と葛が別物にはならず、てんめんと口腔内の粘膜に沿う美学が息づいていた。