高知の夜は、三軒の居酒屋を巡った。
魚料理を食べに 「魚福」へ。
30数年前の記憶をたどって「タマテ」へ。
そして「一軒家」。
前の二軒は、いずれ書くことにして、「一軒家」にやられました。
焼き茄子、冷奴、煮込み。当たり前のつまみが素晴らしくうまい。
そして、笑顔が優しい働き者のお母さんと、息子に料理をさせて、ずっと座って注文を伝えるのが仕事のお父さん。
とり足は、雛と親、タレと塩がある。
連れが、隣の親父客二人に、どちらがいいですか?と、聞いた。
「俺は年だから固い方の親だな」。
言っている理由がよくわからない、だがここは断然親といこう。
鶏は、精いっぱい生きてきた証の弾力に満ちていて、噛む喜びが湧きあがる。
「固いものは?」「豆腐」。「柔らかいものは?」「プリン」とか答えるという最近の子供と、遠く離れた、生きた味わいだ。
命をいただく感謝の味だ。
冷やしトマトは、太陽の匂いと酸味があり
焼き茄子は、身が滑らかで甘みがある。
名物冷奴は、張られた出汁の味が深く、
ニラトンは、嬉しいことに花ニラで、
牛すじ煮込みの汁は、なんと優しい味なんだろう。
当たり前のものが当たり前以上である、普通のありがたみに震える。
そのせいで、三軒目だというのに、ヤキメシを頼んでしまった。
またこれが。困ってしまうんです。
パラパラで。醤油のうまさがほんのり回って、人参、玉ねぎ、椎茸、紫蘇といった具が、極微塵に、ほぼ同寸に切られて混ざる仕事の良さ。
おかわりしたくなって、困るんです。
ああ明日も泊まって、ここに来たい。
「タレかけますか?(ソースじゃなくて“タレですよ)」とお母さんが聞く、海老フライやキスフライも、食べなきゃなあ。