「この料理は、すぐにはできない。だから休みの日曜に店で、ずっと目を離さずに炊いています」。
八十手前になるご主人は、そう言って笑った。
突き出しの「冬瓜煮」である。
「若い頃、この冬瓜を炊いていて、親父にしょっちゅう叱られました。『おい、そんなに急いで、どこ行くんだい』って」。
忍耐が必要な料理なのだろう。
穴子のタレも、小豆を煮るのも、他の仕事も、すべて休みの日だという。
「昔は三つ同時にやっていても大丈夫だったけど、今はちょいと逃しちゃうことがあってね。まあこれも年だということを教えてくれているんだね」。
そう淡々と話された。
突き出しは、夏が冷たい冬瓜の煮浸し、他の季節が小魚や牡蠣の南蛮漬けと決まっている。
冬瓜は楚々として、さりげないが、緩みが一切ない。
どこまで皮を剥くか、味付けはどこまでか。
味を均等に入れながらも、冬瓜らしさをどれだけ残すか。
歯ごたえをどこまでにするか。
気の遠くなるような精緻な仕事が重なった料理の美学が、目の前にある。
冬瓜と出汁が自然の摂理のように一体化し、丸く、境目がない。
舌に、冬瓜と出汁の味わいが、ゆっくりと流れる。
その刹那、柚子が香って、鼻腔を揺らす。
これは完璧な美である。
古き良き時代の誠実から生まれた、垢抜け、澄み切った美である。
いつまでも、この美しさがわかる舌でありたいと思う。
先代が、今のせわしない仕事を見ていたら、言うに違いない。
「お前ら そんなに急いでどこへ行くんだ」。
ご主人は、ある日言われた。
「うちは、穴子とアンコウが看板だから、それがうまいのはあたりまえ。だから突き出しは、死ぬ気で作っているんだ」。
四谷「たまる」にて