六本木「厲家菜」 「豚ばら肉と白菜と魚の浮き袋の蒸し物」。
スープを飲んで、ため息一つ、まろび出た。
「はぁ~」。言葉とならない感謝が、体を震わす。
白菜の心を包み込むような甘味に、豚肉の滋味が静かに溶け込んでいる。
豚と白菜が、長時間抱き合い、加熱されて生まれた宇宙が、体を弛緩させる。
白菜の甘みは強いが、空高く優しい。
豚の脂はコクを生んでいるが、絹の穏やかさで舌をなでる。
もはや塩分がいらないうま味だけの唱和が、ゆっくり舌に染み、喉元に落ち、体中の細胞にいきわたっていく。
生きている実感がそこにいて、涙が滲む。
豚肉の、脂と肉の見事な均整がとれた部分だけを、皿に盛り込み、白菜は、青臭さを出さぬよう、芯だけを使う。
どこにでもある食材から生み出された奇跡は、贅沢な食材の極めから生まれたのだ。
そしてそれらを、一日かけて蒸し、汚れなき滋味を抽出したのである。
料理である。
料理という文化である。
西太后の日常、清朝家常菜が、東京に居ながらにして食べられるという幸せ。
気の遠くなる年月をかけて生まれた人間の知恵が詰まった料理だ。
人間であるという喜びを体に刻みこむ、叡智の果ての料理は、伝承すべき、人間の誇るべき文化でもある。
あるガイドが星を落としたのは、きっと、偉大な知恵に畏怖を抱き、嫉妬したのではないかと思う