東京で高級食材を使った和食が続くと、心が空白になって、無性に京都や大阪が恋しくなる。
新幹線に乗って関西に向かう。
そして数々の野菜料理に触れ、自分の舌の基準をゼロに戻す。それが関西に和食を食べに行く理由である。
今まで数多くの割烹に出かけた。
今はなき、京都の「南一」のうすい豆の浸し、上野修三さんの店の筍、「祇園浜作本店」の海老芋など、野菜料理の慈愛に満ちた奥深さに打たれ、魅力にはまっていったのである。
関西には、こうした割烹から庶民的な料理屋に至るまで、凄みのある野菜料理があるので、嬉しい。
大阪なら、かやく飯の「大黒」に向かう。野菜の惣菜を頼んで、昼から酒を飲んでやれという、魂胆である。
まずは「胡瓜もみ」の爽やかな香りと優しく利いた酸味で、外の熱い空気を吹き飛ばし、冷たいビールを飲む。
常温の酒も注文し、「なす丸煮」の甘く溶けるなすを舌の上に乗せて、酒と出会わせる。
よし調子が出てきたと、南京煮付に酢ごぼう、小松菜と油揚げの煮付けに酒をもう一合注文し、かやくご飯大盛りを猛然と食べる若者の横で、一人ほろ酔い状態である。
中でも「酢ごぼう」がいい。
酢がじんわり染みて、ほのかな酸味と土の香り、胡麻の香りが合わさって、つい猪口に手が伸びる。
どの料理も実直な味わいで。舌にしみじみと丸く、心がもみほぐれてゆく。
こうした野菜料理を食べるために思うのは、大阪は心の豊かさのある街だなあということである。
京都なら「ほっこりや」だろうか。
「朝家を出る時は頭の中は真っ白。八百屋に行って野菜を見て考え、そして自分に今日はなにが食べたいか聞いて、なにを作ろうか決めるんです」。
今年で24年を迎えるという、京都「ほっこりや」の女将、松本 美智代さんは言う。
そうして作られた今日のおばんざいが、ずらりとカウンターに並ぶ。すべて食べたくなる。。
海老芋は、飾り包丁の角が微塵も煮くずれずに美しく、中心まで均一に柔らかい。
歯力をいれることもなく、すっと入って、なめらかに舌の上で崩れていく。
そのきめ細やかで優しい食感と同期して、心が溶ける。
もう滅多に市場に出回らなくなった京菊菜は、おからと和え、えぐみない、爽やかな香りを放って、おからの甘みを盛り立てる。
手作りの永源寺コンニャクは、通常のコンニャクと違って柔らかく崩れ、その食感がまた、堀川ゴボウの源流かもしれないという丹波ゴボウの凛々しさを愛しくさせる。
染み込んだ味わいが舌に暖かみを灯す、干ワラビとお揚げの炊いたん。
酒恋しくなる塩梅の、出過ぎない味付けをされた水菜とお揚げの炊いたん。
微かな辛味と辛い香りが、野菜の揺るぎない甘みに刺す、聖護院大根と里芋、京人参と鶏肉の炊きあわせ。
いずれの料理も、背伸びすれば家庭でも届くところにありながら、及ばぬ毅然とした美しさがある。味の芯に坂本さんならではのものがある。
いつも野菜料理だけなのに、十二分にお腹が一杯になる。
結構飲んでいるのに、酔いが緩やかで心地よい。
気持ちが充足するからだろう。
おそらくそれこそが野菜料理の力であり、「ほっこり」の意味なのだ、と思う。