りんごと玉ねぎのおろしを添えた〆鯖は、その身に秘めたエレガントを僕らに教えてくれる。
りんごの甘酸っぱさや玉ねぎの香りに身をゆだねて、脂の豊かさとは違う、繊細な香りを漂わせ、そこを根三ツ葉のきんぴらが、ひりりと引き締めるのさ。
「豆腐」が野菜の静かな甘みを抱きながら、崩れていく。
豆の甘みと野菜の滋味が溶け合って、体の奥底から安堵が迫り上がる。
昆布出汁で大根などの野菜を5時間、あたりをつけてから豆腐をいれて5時間炊いたという野菜豆腐である。
精進料理のような潔さの中に、揺るぎない力強さがあって、心に刺さる。
煎り酒を塗った明石鯛のオスのお造りは、オスらしい凛々しさとキリッとした香りがあって舌に切り込んでくる。
脂は乗っているのだが雌のようないやらしさはなく、スパッと消えては、うまみの余韻だけを残す。
ああ。優しく優しく火を入れられたマナガツオは、その淡い味わいの中に、食べる側の心を見透かすような色気を秘めている。
食べれば、ほわんと崩れて、「いやん」と言う。
素朴なソバの実はマナガツオを静かに見守りながら持ち上げ、途中から梅干しを溶きながら食べすすめば、酸味がまた色香を膨らますのだね。
豊富なプランクトンを食べて育った南氷洋のクジラは、味噌叩きで。
片面だけをじっくりと焼いた「サワラ」は、皮は爆ぜるように香ばしく、身はしっとりとして、まだ命が宿っているかのようにみずみずしく、ほわりと甘い。
炒め煮にした松茸の香りをお供にして、誇らしげである。
クジラの黒皮の下にある本皮は、歯の間でくりっと弾みながら、独特のコラーゲンの香りをにじませる。
香りは確かに魚なのだが、どこか獣の強さがあって、それが噛むごとに命の深さを知らしめる。
そして握り寿司の数々。
酢飯はすのうまさを伝え、中とろは食べた瞬間にディープキスをして舌と同化する。
魚を愛し、野菜をキノコを愛したこの日本料理は、ここ銀座「割烹智映」にしかない。
従来の日本料理の技を使いながら、まったく違う、誰のもにではない「私の料理」である。
うまさや華やかさにウケる、今の人たちには届かないかもしれない。
でも。
食べるたびに思う。
この自然に対して誠実に即した日本料理こそ、新たな光明であると。