酢の物はけなげである。
主役を張る気もなく、脇役に徹して、どこまでもさりげない。
その一方で自らの役目はわきまえていて、記憶の片隅に存在を記す。
例えば会席のコースの中では、料理の最後、ご飯の前に出される。今までの料理の余韻を一旦断ち切って、ご飯に向かわせるためである。
だが酢の物の味が整っていなければ、今までの料理も、この後のご飯も台無しになってしまう。それほどの大役を担いながらも、決して目立つことなく、粛々と自分の仕事をこなしている。
居酒屋でも、静かに酒を進めさせるが、急いで食べる必要もなく、会話の邪魔になることない。
しかし無いと、寂しい。割烹や居酒屋におけるそのあたりの存在感が、実にけなげなのである。
酢の物で衝撃を受けたのは、「懐石 辻留」の「もずく酢」だった。
街中で出会うもずく酢は、 合わせ酢の中にもずくがいる。
酸っぱさが舌を刺し、その後からもずくが現れる。
「酢の池があったので、浸かってみました」。 といった感じである。
だがその「もずく酢」は、合わせ酢ともずくが一体となって、舌に流れて来た。
「長い間一緒に過ごし、理解しあってきました」と、 無理も角もない。
優しい関係を結んで、ほのぼのとした気分を運んでくる。
聞けば、薄口醤油で味付けたあわせ酢の中に、三時間漬けているのだという。
こうして「辻留」では、食材の性質に合わせて、薄口を入れた出汁や合わせ酢に浸しておく時間を決める。
そして直前に本味をつけ、調整する。
だから味が丸い。
酢の物は、切った食材に合わせ酢をかけるという、単純な料理である。
だからこそ事前のひと手間が肝心になってくる。
例えばキュウリなどの野菜は、薄く薄く切り、下味(立て塩)につけて脱水してから合わせ酢に漬けないと、食感がよろしくない。
その仕事には、食材への思いと、食べる人のことを思いやった気持ちが沁みている。
だからこそ、よくできた酢の物を食べた時には、心が豊かになる。
もうすぐ青菜とほっき貝の胡麻酢和えかな。
秋のほうれん草と松茸もいいね。
冬の白子や、じゃがいもと芹、春の桜干しサヨリとウド、赤貝と白魚、蛤やあさりとワカメ、夏の鱧皮と胡瓜、鯵と胡瓜、うざく、金糸瓜と三つ葉に鳥のささみなんてえのもいい。
思い出すだけで、季節への情が深まり、ほっぺたの内側が、ほの酸っぱい気分で満ちて、切なくなってくる。
ああ、これは初恋に似ている。
写真の染め付けに入れられた一皿は「辻留」の「アワビ数の子和え、寿海苔」