「干し鮑よりも、すし屋さんの蒸し鮑のほうを僕は評価するな」。
先輩のぐーるめから言われて、いっそう食べたくなった。
薄切りは食べたことはある。
感動した覚えはない。
だがまだ見ぬ全身干し鮑さまとは、香港の金持ちが銀行にも預けるという鮑さまは、どんな味なのだろう。
十二年前の夏の日、意を決して銀座「福臨門」の入り口を潜った
一皿五万円~という干し鮑さま料理を供す店である。
当時は、これだけ立派な鮑を擁するのはこの店だけだった。
五万円には及ばず、たしか二万円の鮑さまだったと思う。
だが、これが二万円かと思うほど小ぶりで、可愛らしいやつだった。
「一切れが三千円」。
ため息をつきながら、一人噛み締めた。
髄まで味わってやるゾの気迫で、ゆっくりゆっくり噛んで、噛んで噛み締めた。
その後も幾度か全身鮑さまに出会う幸福に恵まれたが、
先輩の評価の正しさを、納得しながら噛み締めている。
嬉しい裏切りは突然やってくる。
銀座「レディダンド・トトキ」。
ここにも干し鮑さまがいた。
三陸吉浜産の高級「吉品キッピン」と大間産の「網鮑モウガオ」
一皿一万八千円と二万五千円
「ワイン煮込み」である。
試行錯誤を重ね、半年がかりで出来上がったという皿が運ばれた。
ソースのクレムゾンが、深みを帯びた艶を、白い皿から放つ。
真ん中に鎮座する干し鮑。
ナイフが吸い付くように入っていく。
一切れ。一噛み。
赤ワインの酸に支えられた、ソースの、豊満な、饒舌的で品格あるうまみが、まず、舌を捉えた。
一噛み。一噛み。
なんたることだ、
海が、陽が、海草が、養分が、次々と湧き出てくる。
噛むごとに、時間の経過と共に、それは押し寄せ、圧倒する。
経時変化していく味わい。
鮑に詰まった海と太陽が、口に染み出し、次第に高まっていく喜び。
「まいった」。
と、思った刹那、口の中からなくなる。
だが、味の軌跡は引かない。
閉じた暗い口の中にとどまって、海に差し込んだ光のように、いつまでもいつまでも揺らめいている。
今度は三噛み目に、ヴォーヌロマネ レ・スーショを流し込んだ。
「ううっ」。
爆発、妖艶、犯罪、弛緩。
オイスターソースが勝ちすぎる中国料理より、ここにこそ干し鮑の真実がある。
昇華させている。
シェフは、わが子をほめられたかのように満面の笑みで食べる姿を見つめていた。
恐るべし十時さん。