<2019年 もっとも感動した3皿>
料理とは、その瞬間に輝き、消えていく。
たとえ同じ料理であっても、同じ衝動は得られないかもしれない。
その“切なさ”を、いかに感じられるか。
一期一会の貴さが、胸に沁みるのか。
今この時間にここにいて、この料理をいただいている感謝が、深く、深く突き刺さってくるのか。
どれも食べて無口になり、様々な思いが巡り、涙が滲んだ。
3皿は、そんな“刹那の味わい”の大切さを、教えてくれた料理である。
「祇園 浜作本店」「若狭むしり」
立派な白皮ぐじを取り出して、目の前でご主人の森川裕之さんがおろす。
焼いてほぐし、大根おろしを乗せ、橙酢をかけ、ふり柚子をし、茹でたてのほうれん草と水菜を添える。
大根おろしも水菜もほうれん草も、今料理されたばかりである。
甘鯛は、焼かれてからほぐされているというのに、みずみずしい命の滴りがあって、上品な甘さが広がり、橙の甘い香りと口の中で響きあう。
「大夢」二月のお椀「兆し」
一口飲むと、清らかな海に浸かって、その豊穣を一身に受けた。
二月の煮物椀は、「兆し」と題されたお椀である。
お椀の蓋の上には、丸められた紙と羽根が置かれている
羽根をとると、卵が現れた。
その脆弱な卵を、前歯でそっと噛んだ途端に、春の風が吹き抜ける。
中にふきのとうが入っているのである。
春の香りと苦味に、心が浮き立ちながら蓋をあける。
するとそこはまだ、冬景色であった。
白子のすり流しと淀大根のお椀を、一口すする。
ああ、なんということだろう。
白子の生命力とつゆの穏やかさが丸く抱き合い、孤高の旨みを滴らせる。
うま味は深いが、強くはない。
味わいは静かだが、心を鼓舞する。
神の領域とも思えるその味わいの中を、淀大根が歩んでいく。
ゆがきたての大根は、まだ命の気配を残したまま、噛む必要もなく崩れて、我々の気を静め、じっとりと甘みを膨らますのだった。
銀座「割烹 智映」の「冷やし野菜の水貝仕立て」
一口飲んだ冷たい汁は、素っ気なかった。
あまりにも淡味で、清水のようにするりと舌を流れ、喉に落ちていく。
中に入った、様々な野菜を食べる。
するとどうだろう。
次第にうま味が膨らんでくるではないか。
飲み、食べ進むごとに、変化していく。
素っ気なかった表情に、情が刺す。
冷えた色合いに、温かみが漂う。
この汁は生きているのだ。
昆布出汁と鮑の出汁を合わせた汁は、野菜と出会い、人間に飲まれたことによって、覚醒したのだ。
最後に豊かさの頂点登った汁を、惜しむように飲み干す。
虚空の器を見ながら、安堵のため息を一つ、吐く。
心に、涙が一筋流れた。
昆布出汁と鮑の出汁の割合、低音で蒸した野菜の組み合わせなど、なんどもなんども試行錯誤を繰り返したのだろう。
しかしもう二度と、この料理を食べることは叶わない。
さようなら料理。
さようなら智映。
でも僕は、一生忘れない。