前号まで
石狩の原野に佇む、鮭料理店「あいはら」。角と友人は苦心して店を捜し出した。訪れてみると、大広間に客は我々だけ。不安にさい
なまれながら料理を待つのであった。
チリリン。
包丁を叩く音と海風に揺れるガラス窓の音に、季節はずれの風鈴が加わった。
ひしゃげた窓のすき間から吹き込んだ風に弄ばれ、音を鳴らしている。
現実離れした可憐な音は、大広間でぽつねんと待つ我々の不安をさらに掻き立てる。
窓の外は粉雪が舞い、精気のない灰色の空がどんよりと広がっていいた。
ふと、窓脇に小さな紙が貼られているのを見つけた。
「やはらかに やなぎを責める北上の岸辺 目に見ゆ泣けとごとくに」。
啄木の唄である
「無常だねぇ」。 友人が呟く。
その時包丁の音がやんだ。
「フォッフォッフォッ。はい、お待たせしました」。
ご主人が太い笑い声を出しながら、料理を運んできた。盆の上にはそれぞれに三つの料理を盛った小鉢がのっている。
「はい、これが鮭の麹漬け、これは氷頭なます、これは鮭の肝臓をすりつぶして腸を和えたともあえ。昨晩作ったやつだからうまいよ
お。フォッフォッ」。
乳白色の麴から鮮やかな朱鷺色をのぞかせる麹漬け。
茶褐色のとも和えと、透き通るような白色と灰色の氷頭なます。 酒飲みにはたまらぬ展開である。
僕は顔をへらへらさせながら麹漬けに箸を伸ばした。
なんとかぐわしい。
生き生きとした香りと酸が口の中をはね回る。
氷頭なますは、いままで食べてきたようなコリコリした歯触りでなく、しっこりと歯に食い込んでくる。
いいゾ。
そしてとも和えは、穴子の肝の山椒煮に似て、苦味が程よく、酒が猛然と恋しくなる。
「お酒ぬる燗で酒一本。いや二本」。
僕があせって酒を頼む様を見て、ご主人してやったりとばかり、にやりと笑った。
こりゃたまらん。前菜でもうこれだ。まだこれから六皿もあるのにどうなるのだろう。
次に運ばれしは「鮭焼売」である。
鮭のすりみを包んだ焼売で、穏やかな味わいに心安らぐ。
「スーパーで売っているのは冷凍品だから水分が飛んでるだろ。うちのは今年仕込んだやつ。全然違うから」と、自信満々でおやじが運んできたのは、「鮭の飯ずし」である。
違うからといわれても、こちらは江戸っ子、申しわけねぇけど違いはわかんねぇよと思った矢先、間髪入れず「ルイベ」が登場した。上品な脂が舌の上でゆるゆると溶けていく。
そこにすかさず酒を流し込んで、ああ、脳みそが溶ける。
次に「焼き白子」が追い打ちをかけてきた。
赤ちゃんの握り拳大にプックリ膨らんだ固まりを、一口にほおばる。
とろりと甘い滋味が舌に流れていく。
ふぐほど濃厚ではないが、うまみが、雪が積もるが如くずんずん膨らんでいく。
さらに「焼き鮭」と来た。
なんと八センチもある分厚い切り身で、焼き鮭というよりは鮭ステーキである。
身はしっとりとして、噛むに従い、脂の甘みが滲み出る。
そしてついに真打ち、味噌仕立ての鍋に、キャベツと玉葱と鮭の切り身がどっさりと入れられた、「鮭鍋」が来たあ。
ああなんという、優しく深いうまみ。
キャベツの甘み、玉葱の甘み、鮭の甘み、味噌の甘みが滑らかに調和して、穏やかな風合が鍋から立ちのぼってくる。
ええいこうなったら、最後はこいつをご飯にぶっかけて食べてやろう。