遠い記憶が、紐解かれていった。
イタリア人でもなく、イタリアに住んだこともないのに、懐かしさがこみ上げる。
手元に入る食材だけを練りに練り、長年作られてきた、慈愛の味わいだった。
年間500kgしか作られず、地元のヴェネト州でも入手困難という、高価なファジョリーアッティという豆は、野菜とピュレにされて、あさりとともにコルツェッティにかけられる。
白インゲン豆の優しさに似ているが、その甘さはより芯が通っていて生命力に満ちていた。
オレンジ色のピュレが、唇に触れ、舌にしなだれ、喉に落ちていく。
口の中で豊かな香りを膨らました豆は、その香りだけを残し、暖かい余韻をいつまでも漂わす。
「ああ」。僕には、吐息を漏らすことしかできない。
「愛農ポークの牛乳煮込み」は、牛乳と白ワインだけなのに色わいが、赤銅色をしている。
「玉ねぎや肉の煮汁も入っていますからね」と、太田シェフはこともな気にいうが、そこには多様な智慧と技が込められているのに違いない。
肉は、舌の上でほろりと崩れるほど煮込まれているのだが、肉のブイヨンを筋繊維一本一本に抱きかかえている。
そして、肉の煮汁で絶えず転がしながらローストしたというじゃが芋は、そこまでも滑らかで、自らのやさしい甘さをにじませながらソースと同化する。
または一時間練り続けた、トウモロコシの香りを辺りに撒き散らす、出来立てのポレンタは、とろりと口に滑り込み、抱きしめたジロールの香りとともに、跡形もなく消えてしまう。
油分がないのに、なぜ滑らかになっているのかわからない、カルチョッフィーのゆで汁と卵黄だけのソースでフリカッセにされたカルチョッフィーは、まあるい味わいのソースの中で、ほろ苦さを誇る。
ああ、懐かしい。またそう思った。
人類の叡智と母の愛が込められた料理は、出生地を超えて、体に滋養をみなぎらせ、心を安寧へと運ぶ。
それこそが、この店の店名に込められた「願い」なのかもしれない。
三軒茶屋「ナティーボ」にて。
遠い記憶が
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