1954年、小田原の駅前で、ひっそりと店を開けた。

食べ歩き ,

街灯テレビの中で、力道山の空手チョップが炸裂し、昭和の熱狂が始まろうとしていた1954年、その店は小田原の駅前で、ひっそりと店を開けた。

「杵吉」という店名は、ご主人の名前から取った。
杵屋政吉という名前で、三味線のお師匠さんをされていたご主人は、戦地で亡くなられた。
だが、いつ帰ってきても、そこが実家の店だとわかるように、名前をつけたのだという。
現在は、2代目となる70数歳のお母さんが、1人で切り盛りしている。
メニューはない。

いらっしゃいませ。きょうはどうなさいますか」。

大衆居酒屋のカウンターに、お母さんの綺麗な言葉遣いが響く。
「地アジのいいのが入ってますよ。あとはカツオ。キンメもあるので煮付けにしましょうか。海老フライにアジフライもできます。それから、おからとキンピラです」
「全部ください」。

微塵の迷いもなく、そう返事をした。
アジは、上品なキレのいい脂を舌の上で溶かし、カツオは、もっちりとしたなめらかな身で誘惑する。

いずれも銀座の一流寿司屋で出されるのと遜色ない質である。
店内に、ほの甘い香りが漂い始めた。
お母さんがおからを作っている。

ああ。ああ。
おからもキンピラも、ナスの揚げ浸しややアジフライ、キンメの煮付けも、たちうおの素揚げ酢醤油かけも、これ以上いってはいけないという味付けで、ぴたりと決まっている。
どの皿も、しみじみとした滋味に富んでいて、心を丸くする。

「おいしいなあ」と、何度も囁いた。
「若い頃は月に一度、京都にお稽古に行っていてね。千花のご主人にはよくしていただきました」。
京都では、先代の美山荘のご主人とも仲良くし、大原千鶴さんとも、よく飲んだという。

味に彼女の人生が染みている。
惣菜にも、キリッとした品格があって、かつ誠実な穏やかさがある。
食べながら、愛する人のことを思い浮かべた。
食べさせたい。
そう何度も心の中で呟いた。