料理人への類い稀なる才能と労力への対価

食べ歩き ,

ある割烹が、銀座に人知れずある。
この店の凄みに触れたのは、椀物であった。
8年間店をやられているが、毎月変わるお椀は、一つとして同じものを出されたことがない。
椀種も椀妻も、吸口も、違う。
しかもすべて、他の店がやっていない、創作されたお椀なのである。
創作されたお椀と聞くと、創意工夫が先に立ち、椀物としての静けさがないように思う。
しかしどれも自然に寄り添い、季節が体中に満ちていくお椀であり、飲み終わると、この国に生まれた幸せを噛み締める。
4月のある日は、「ひな流し」という名前がつけられていた。
お椀の上には丸いガラス板が被せられ、その上には豊穣を祈る桟俵が敷かれ、夫婦和合証である蛤の殻が置かれて、エンドウ豆の鞘と豆苗が飾られていた。
豆苗は、お内裏さまに見立てられている。
まずは、その小さな葉だけを食べてくださいという。
青青しい香りが弾け、未成熟の弱さが伝わってくる。
そしてガラス板を取ると、輝かしい春が現れた。
淡い淡い亜麻色を、恥じらうように灯した白子筍と、若苗色に実を染めたうすい豆である。
おつゆをいただく。
柔らかさの中に、一徹のうま味を秘めたつゆである。
筍を齧る。
触れてはいけないような、純真な甘みがこぼれる。
食べゆくうちに、切なくなってくる。
あまつさえ豆を食べれば、微かに抵抗して潰れた。
固くもなく、柔らかくもなく、豆の張りに敬意を払って茹でてある。
一粒だけで、甘く青い香りが爆発する。
ぬるんとしているのは、無農薬のサヤを茹でた汁で葛とじをしているのだという。
春の命だけが持つ、儚さとたくましさを伝えるお椀に、涙した。
このように毎月、創作の椀を考えるのは並大抵のことではないだろう。
ざっと数えただけで百近い椀物を考えられている。
そのために、毎月一週間ほど休んで、次の月への試作を重ねるのだという。
我々が料理屋を訪ねて、お金を払うのは、高級食材に対してではない。
料理人への類い稀なる才能と労力への対価であるということを、こころに命じなければいけない。