呼吸が聞こえてきた

食べ歩き ,

呼吸が聞こえてきた。
耳元で命が囁き、脈動が響く。
前菜の「ホタテとみる貝のタタキ」は、細かく切ったホタテと本みる貝を合わせ、エキスが出ない程度に、優しく手で押し揉むことによって味を引き出し、塩漬けにした穂紫蘇と刻んだすぐき、川津エビの蝦醤と合わせる。
口に運べば、天然ホタテならではの爽やかな甘みとミル貝のじれったい甘みがほぐれ、しなだれ、練れた香りや塩気と渾然となって、すぐそこにある春を教える。
ケンサキイカのうるいソースがけ」は、うるいに潜む微かなえぐみや甘みが、イカの甘みに寄りかかる。春という覚醒の喜びがイカと出会い、舌を打ち、心を温める。
「かに玉汁です」

智映さんは、少し恥じらいながら、少しだけ誇らしげにお椀を差し出した。
カニのしんじょ椀である。
なにより玉子がいい。固まる寸前のふわふわとして卵が、唇にキスをする。
その感覚に顔を赤らめていると、精妙な塩加減の汁が舌に流れ込む。
そこで「ほうっ」と、充足のため息ひとつ漏れる。
やがてホウボウの旨みがそっと支える毛ガニのしんじょが現れ、我々を高みへと運んでいく。
ここだけでしか味わえぬお椀は、毛ガニの柔和な面を見つめた、智映さんの敬意である。
敬意に包まれたかには、晴れがましい顔つきで、僕らに甘く微笑む。
僕らも心が澄み渡って、微笑み返す。
ああ、ここには愛が満ちている。

次は、三浦半島で獲れたという幻のブリだった。
一日しか寝かしていないという。
それなのに脂が身のすべてに巡っている。それなのにいやらしくも、しつこくもない。酸味を一切感じさせず、気品ある甘みが舌の温度で溶け、消えていく。
そして喉に落ちかかる刹那、甘美な香りが立ち上がり、しばらく口の中に漂い、残るのである。
やめて。思わずそう叫びたくなる蠱惑は、命の神秘なのか。

秋田の荒布をかけたフグの白子焼きとフグの白子で作った衣でベニエにしたジャガイモのコロッケ。
これまたなんということだろう。コロッケの芋の優しい甘みが口の中から消える頃合いに、衣に含んだ白子の香りが、そっと立ち上がるのである。

続いては「あわび粥」。おこげの部分だけをとろとろに仕立てて、あわび肝などのソースに溶かし、さっと焼いた鮑の薄切りを乗せてある。
米の鮑の滋味が細胞に染み渡り、次第に体の力が抜けていく。
そしてたくましき身の質と品のある甘みがある「ハマ鯛の白溜麹焼き」

武藤くんの握る寿司と巨大赤貝のヒモキュウへと流れる。
最後は冷凍に秘密があるという、卵黄のみの卵焼き。
全てが既存の常識を外し、魚の真性をとことん見抜き作り上げた、今の日本のどこにもない日本料理であり、同時に陸と海との繋がりを表現した、未来の料理でもある。
真性を見抜いたからこその命の脈動がある。
こんな料理食べるときは、僕らも静かにして、耳を傾けよう。
心を澄ませ、虚心坦懐に料理と向き合い、口にする。
そうすれば、生きる喜びに満ちた魚や植物の、小さな息吹が見えてくる。
銀座「割烹 智映」にて