吉川敏明シェフ 黎明期2

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当時は片道二十四万円でした。オータニの給料が一万五千円でしたから、今のお金にすると二百万円ぐらいですかね。ですから、一番安いJALの南回りで行ったんですが、スチュワーデスの人以外で乗っていた日本人は、僕だけでした。

切符は片道だけです。無謀といえば無謀ですが、行けばなんとかなるだろうと。

仕事は、オータニ時代がウエイターですから、料理はまるで経験がなく、イタリアでも出来ればそういう仕事というか、今でいうソムリエみたいな、肉体労働じゃない楽な仕事(笑)を望んでいました。

ところが言葉を知りませんでね。で偶然、僕は偶然ばっかりなんですが、ホテル学校があるというので、ローマの郊外のホテル学校へなんとか入り込んだんです。

それが「ENALC」(国立ホテル学校)です。ところが言葉がわからないから、見て勉強になるのは料理だろうからというので、最初は調理部門に入ったんです。

ただその頃は、イタリアにどんな料理があるか、ほとんど情報がなかったですからね。

当時の日本に料理本はないので、行く前に「世界の国全集」のイタリア版を買ってきて、どんな国だろうと勉強したぐらいです。

だからその本に載っていた、サルティン・ボッカとフリット・ディ・カラマーリ、スカンピ、カラマーリというのが、代表的な料理らしいとわかったくらいです。

これは日本語で「すかんぴんの空回り」と言うといいとか(笑)。そんなふうに覚えてたぐらいですから、料理の知識がほとんどなく、初めて見る食材ばかりでした。

ズッキーニも、カルチョーフィも初めて、ピーマンだって巨大なものばかりで、見るものすべてが初めてでした。いやあ、えらいとこ来たなと思いましたね(笑)。

まず、行く前に一番心配したのはチーズです。というのは、当時の日本は石鹸みたいなチーズばかりでしたから、こんなチーズを毎日料理で食べさせられたらかなわないなと思っていたんです。ところがどれもおいしくて、全然違うわと思いましたね。

それによかったのは、麺類が好きだったことかな。だからイタリアにいる間に日本食を食べたのは、二回ぐらいです。

トマトソースの味にも次第に慣れましたが、最初、毎日はきついので、スープにタリオリーニを入れ、日本のラーメンみたいにして、ちょっと疲れると食べていました。

これにほうれん草とナルトを乗っければラーメンだなあと。醤油味ではないですが、なんとなくほっとするので、一週間に一遍ぐらい食べていましたね。

オリーブオイルも初めてですが、さほどきつくなかったですね。特にあの頃は今みたいにエクストラバージンのような濃い色って、ほとんど使ってないんですよ。一般に流通していたのは、今でいうピュアのワンランク軽いものですから、オリーブオイルではそんなに不都合はなかったです。

まあ食材で一番驚いたのは、やはりカルチョーフィですかね。姿形がとんでもない。それと、あれはあくが強いから掃除しているうちに手が真っ黒になるんです。

日本に入ってくるのは古いから、あまり黒くはなりませんけれども、新しいものは手が真っ黒になるし、苦いんです。

ですから当初駆け出しの頃で、指先にちょっと傷が付いたりするので、あくが染みるんです。それを取るにはレモンが一番落ちるんですが、これがまた染みるんですね。

他のイタリアの野菜も、みんな日本よりあくが強かった。ほうれん草にしても茹でると、湯が真っ黒になってね。だから日本から持っていったお茶を飲ませたら、これはほうれん草の茹で湯かって言われましたよ(笑)