吉川敏明シェフ 黎明期1

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生まれは早稲田です。小さい頃からの夢は野球の選手で(笑)、ずっと少年野球をやっていました。そして王さんが甲子園で優勝した翌年に早実に入ったんです。

ちょうど長嶋が巨人に入団した年(一九五八年)ですから、僕がファンだったのは、西鉄の大下弘、稲尾和久、金田正一。そういう時代です。

ところが、野球部へ入る試験のほうが難しくて、野球はあきらめました。

野球以外では、小さい頃から歴史が好きで、外国へ行きたいという気持ちもありましたから、なんとか外国へ行ける職業はと考え、卒業の時に、ホテルを選んだんです。

最初は東京のヒルトンで働きました。しかしあそこは外資系で、上がみんなドイツ人の厳しい人ばかりで(笑)。というのは、ああいうところは派閥があったんですね。

高卒ぐらいでは駄目で、YMCAのホテル学校を出ないと、ホテル業界ではやっていけないというのです。

それじゃあ、派閥のないところへ行こうと思いました。東京オリンピックを迎えて、オータニが新しくオープンすると聞き、誰もいないところに一期で入るのはいいだろうと、すぐくら替えしました。

一年後にオリンピックが始まって、その時偶然、イタリア柔道チームの監督というかコーチで、昔の早稲田大学の柔道部にいた日本人の方が、オータニに泊まっていらっしゃったんです。

そこで一考し、その方に会いにいきました。当時料理関係では、フランスに行く人が多かったものですから、どうせ行くなら人の行かないイタリアへ行こうと考えたわけです。

お願いしたところ、保証人になっていただけるというので家からもオーケーが出て、結果オリンピックの一年後に、十九歳でイタリアに行くことになりました。

それが一九六五年の十一月です。旅立つ前に、イタリア料理はどんなものかと、新宿伊勢丹の地下で、故堀川春子さんがやられていた「カリーナ」に出かけました。

そうしたら、トマトソースが酸っぱくて。僕なんかはナポリタンで育った世代ですから、「えー、イタリアのトマトソースってこんな味なのか」と思いましたね。

ちょうどミートソースとナポリタン、それにアメリカスタイルのピザがはやり始めたころです。「カリーナ」は、今まで食べていたものとは全然異質なものですから、当時はあまりおいしいと感じませんでした。

イタリアでは、毎日こういうのを食べなきゃならないのかと、落ち込みましたね(笑)。