“切れ味KIREAJI”

食べ歩き ,

「N O M I 」の料理は、雄弁ではない。
最初は言葉数が少なく、時には沈黙がある。
だが、心を平静にし、神経を傾け、目を閉じ、感覚を総動員して食べ始めると、木訥に語り始める。
野菜も魚も、肉も、本来あるべき味わいを、囁き出す。
鰹節、ネギ、鯛、クエ、猪、大根、アスパラ、鹿、苺。
噛み、舌に這わせ、上顎に添わせ、噛んで揮発した香りを鼻腔に送り込む。
そうしているうちに、味が膨らんでくる。
いや爆発と言ってもいい。
奥深く静かな幽邃から、純粋無比な味が解き放たれる。
最初が無に近いものだから、余計に、野菜や魚、肉の本質に気づき、尊いたくましさに打たれる。
これが“切れ味KIREAJI”なのだろうか。
これが12〜3皿出されるコース料理のために数時間研いだ、40本近い包丁を駆使して生まれた味なのだろうか。
“切れ味KIREAJI”と聞くと、鋭い味を想像してしまうが、そうではなかった。
「切る」とは、人間の都合で、食べやすく「壊す」ことである、
あらゆる生物は、壊れることを望んでいない。
生死に関わらず、破壊されることは、自己消滅に他ならない。
生きてきた証を否定することでもある。
だがどうしても壊さなくてはならないとしたら、彼らが壊されたことを気がつかないようにすればいいのではないか。
それが“切れ味KIREAJI”なのか。
切れば細胞はつぶれ、破れるが、それを最低限にするためにはどうしたらいいのか。
その答えが、“切れ味KIREAJI”にはあった。
野菜や魚、肉にも、気品としか言いようのない清浄がある。
味わいの芯に、鋭く輝く、澄明がある。
我々は他の命を断ち、取り込むことによって命を紡がせてもらっている。
その深謝こそ、“切れ味KIREAJI”が生む味なのだろう。