コロッケ日和という日がある。
秋空が、天より高く澄み渡り、そよぐ風が体を清めたら、その日だ。
PCを閉じて、街に出よう。美しきコロッケに、会いにいこう。
まず向かうのは渋谷だ。鉢山交番隣の「ひまわり亭」のコロッケを目指す。
なにしろ飲食店未経験の女主人が、店を始めた理由が、コロッケだというのがいい。
母が作ってくれたコロッケの味そのままに、店を始めたい。ああ、なんて素敵な理由だろう。
「ひまわり亭」のコロッケの魅力は、まず衣である。特製のきめ細やかな衣は、歯に当たるとカリリとして香ばしい。
衣を齧った瞬間に、心を奪われる。
油をまったく吸っておらず、菜種油の風合いだけをまとった凛とした姿には、衣としての機能美がある。
この衣あっての中身である。最近の、サクッとした食感を出したいがゆえに生パン粉を使い、衣の荒さでボリューム感を出すコロッケは、けしからん。
まずはなにもつけずに食べて欲しい。ほっくりと甘いジャガイモに、思わず目を細め、笑顔になるはずだ。
途中でソースをかけ、一気にご飯へと突進しても、衣や芋の風味はソースに負けずに、むしろ盛り上がる。
極微塵に切られた、玉葱、人参、豚ひき肉が入っているが、あくまでそれらはジャガイモを引き立役。
主張を控えて、芋の優しさをそっと助ける愛がある。
しみじみとうまいなあ。一見変哲もないシンプルな姿ながら、舌が洗われ、背筋が伸びる。
パン粉、油、ジャガイモ、野菜、豚肉を吟味し、毎朝ジャガイモを茹で、つぶし、肉を合わせる。
毎日5~60個、自分たちのできる範囲で作り、その日のうちに食べる。コロッケと他の揚げ物は、同じ油では、絶対にしない。
平凡の正しく平凡たることが、いかに非凡であるか、教えてくれるコロッケである。
「ひまわり亭」のコロッケで心を温めたら、次はおやつだ、嬉しいな。
もちろんおやつもコロッケ。老舗の「チョウシ屋」に向かう。
百円玉を握り締め、「コロッパンをください」と注文する。
息子さんが揚げたコロッケを、お母さんが受け取り、パンの片面にマスタードを塗ってコロッケを置き、ソースを小柄杓でかけてパンを乗せ、二つに切って出来上がり。
一連の作業を眺めながら待つのも、ご馳走さ。
上からパン、ソース、コロッケ、マスタード、パンの五重構造を、くるりと裏反して齧りつく。
つまりソース側を下にして、ソースとコロッケの馴染みを、真っ先に味わうのである。
あんぐりと口を開けて噛めば、柔らかいパンにめり込んで、カリッと衣にあたる。舌にはソースのうまみとジャガイモの甘みが広がって、思わずにんまり。
「ああうまい」と、一人つぶやいたあとに、マスタードの刺激と香りが、ヒリッと来る仕組み。 やめられませんなあ。
コッペパンが人気だというが、僕は普通のパン派である。コッペパンでは、パンの身が大きすぎて、コロッケのダイナズムが減少すると考えるからだ。
さあ「チョウシ屋」で和んだら、しばし銀座をそぞろ歩き。ひまわり亭やコロッケパンの余韻を反芻しながら、夜への準備体操。
「夜のコロッケ」。と書くとなにやら怪しく意味深だが、なあに酒に合うコロッケのことである。
ご飯にもあえば、パンにも寄り添い、酒も呼ぶ。コロッケの包容力は、甚大である。
東京には、そんな偉大な「夜のコロッケ」が数多く存在するが、今夜選んだのは、銀座の「ローゼンタール」。
ドイツワインとドイツ料理を出す、古き店である。
二代目女主人が作るコロッケは、「塩豚と胡桃のコロッケ」。大好きなコロッケを店で出したいが、単純なコロッケでは芸がないし、お金もいただけない。ドイツワインにも合わせたい。
思案の末に生まれたのが、白インゲン豆とレンズ豆のコロッケである。
ジャガイモ嫌いなお客さんでも、するりと食べてしまうというコロッケである。
この店もやはり衣がよく、油を感じさせない。きめ細かい衣を突き破ると、二つの豆のなんとも優しい甘みが広がっていく。
豆の甘みをジャガイモ甘みが支え、塩豚の塩気が持ち上げて、胡桃の香りがアクセントをつける。
生ハムや、ナツメグ、クミン、玉葱の隠し味も見事。
小さき体に複雑な味わいや香りを閉じ込めながら、なおかつコロッケとしての素朴感がある。
お多福ソースにマスタードを混ぜたソースをからめれば、上品なようで下品の迫力があって、ウッヒッヒ。もちろん辛口のリースリングにも、見事に合ってしまうのである。
白ワインとコロッケで至福の時。ほろ酔い頭で今日一日を振り返れば、おや? いずれも女性の想いが介在しているではないか。
やはりコロッケには、誰かのためにという、女性の優しき慈愛が似合うのだな。
だからどこか懐かしく、心を座らせるのだな。
そう考えると、幸せがさらに満ちてきた。そうだ明日は、朝からコロッケそばを食べてやろう。