キャベツは、自信の精を、汚れなき純な精の甘みだけを磨き、舌に滴り落とす。
ただ甘いのではない、いけないものを食べてしまったような、いたいけな甘みの純真がある。
食べる人間の清らかさを問うてくるような甘みである。
「出水芙蓉 キャベツ入り古典スープ」
「四川の古いスープ。もう今これを出来る人はほとんどいないよ」と、趙陽
さんが言うように、どうやって成り立っているのか分からない。
上湯にキャベツを入れてとったスープに、すり身をまとわせたキャベツの芯が浮かんでいるのだが、これが不思議の極みなのである。
すり身はキャベツを中に入れてきちんと固まっているのだが、なぜキャベツとつながっているのか分からない。
すり身には火が通っているのに、キャベツはみずみずしい。
そしてみずみずしいような食感なのに、味が凝縮して甘い。
6人前でキャベツ三個を使ったという、その純な甘みを前にして、我々人間はなす術もない。
もはや「おいしい」という言葉もむなしく響き、ただただ笑い、充足のため息をつくしかない。