その料理は、「NOMA」のレネ氏も訪ねて感銘を受けたという。
間違いなく日本でのトップ10に入るレストランであった。
角館の旅館の息子として生まれた高橋一行氏は、26年前、角館で「一行樹」という店を始める。
最初は小料理屋として、一般的な和食を出していたが、食べ歩きが好きな奥さんと結婚してから、料理が変わってゆく。
東京の一流店を食べ歩いて得たインスピレーションを元に、創作を始める。
そして開店5年後、晩酌セットや単品料理を一切廃して、コースだけを供すようになった。
地元の食材を使いながら、最先端の料理技術を取り入れた料理である。
「こんなもん、食えッかよ」。奇抜な料理は、地元の人から敬遠され、客足が遠のいて、経営難となっていく。
それでもなんとか踏ん張った。自分の信じる料理を作りながら、お客さんが入る日を、夢見た。
「まぐろとポン酢のヌーベ」、「角館豆腐のムースと和風ジュレ」、「鮎の唐揚げウルカとたで酢のソース」、「いぶりがっこのミルフィーユ」、「コチのトムヤムクン」。「きりたんぽ鍋のテリーヌ」。
当時の料理である。フェラン・アドリエが開発した、調味料を泡状にして提供する料理の「ヌーベ」など、恐らく日本で一番最初に導入したのではないだろうか。
エスプーマでガスを注入するのを禁じられていたので、何回も試行錯誤して、完成させたという。
それだけなら、単なる突飛、個性的で終わっていただろう。しかし鮪の厚みとヌーベの量などを、精密に計算して作りあげた料理は、最新技術を見事に消化して、素材の持ち味を、生き生きと輝かせていたのである。
次第に東京にも名が響き、全国から角館へ「一行樹」だけを目指すお客さんが、来るようになる。
料理は、日本料理と洋食を学んだ高橋一行さんが、秋田の濃い野菜と魚、肉を使って仕上げた、日本料理でも、フランス料理でも、イタリア料理でもない、個性豊かな料理である。
通い始めて、もう19年になる。
その後銀座へ移転し、再び角館に戻ってからは、以前の研ぎすまされた先進的な、驚きのある料理から変化し、より食材と自然に寄り添った料理になっていった。
秋田の恵みが生き生きと、口の中で爆ぜる料理である。
その事を話すと、「そうなんです」と、寡黙な高橋さんは、嬉しそうに笑った。
例えば秋田で獲れた味の濃いトラフグの焼き霜と、秋田さんのレタスの皿である。
フグの刺身でレタスを巻いて食べる。
ふぐもレタスも、今まで味わった事がない力強さで、互いの中にある甘みが、奇跡的に出会い、新たな天体を生まれていた。
しかし、どこにもあざとらしさを感じさせず、どこまでも自然でけれんみがない、清い料理なのである。
例えば「松茸のポタージュ」という料理である。
ポタージュと言っても、ミルクもクリームもジャガイモもタマネギも入れていない。
とろみはすべて、松茸である。
大量の松茸を澄ましバターで、じっくりじっくりスエする。
そうしてミキサーにかけ、鶏の肉だけでとったフォンと合わせ、香りづけの澄ましバター少量と塩少々で整え、刻んだ松茸を浮き実として入れた、スープである。
運ばれてきた瞬間、あたりは赤松の林となる。
松茸の香りの湯気が立ち上って、顔を包む。
口に運んで、目眩がした。
太い松茸を口にねじ込まれたような、陶酔がある。
圧倒的でありながらも優しい。
舌を過ぎ、喉元に落ちた後から、再び松茸の香りが押し寄せる。
余韻だけで頭が揺さぶられる。
「ものの味を活かすということを、一番大切に考えています」。高橋さんが、ぼそりと言ったことを思い出す。
「秋田のテロワールを、大切にしていきたいと思っています」。
坊主頭に似合わない、可愛らしい小さな目がキラリと光って、生産者の話になった。
「知り合いの漁師さんは、凄く変わっていて、魚群探知機使わないんです。狩りとは、人間が原始時代からやってきたものだから、エンジンはかけるが、勘とか感性で俺は獲りたいと、海に出るんです。野菜は野菜で、その辺のおばあちゃんですが、生まれた孫のために、何もかも無農薬で作って、孫に食べさせたいっていうおばあちゃんが多いんです」。
「手塩にかけて作ったり、命懸けで獲ってきた思いを、大事にしなくてはいけない。その想いだけで料理を作っています」。
だからこそ、西洋料理の技法や東南アジアの調味料を使っていても、感じるのは「秋田」そのものであった。
白菜の甘みと干し鮑のような鮑の凝縮した滋味が溶け合う皿。芹の香気が、ズワイ蟹の旨味を引き立てる茶碗蒸し。
かすべのゼラチン質の甘みとキャベツの甘みが、シャンパンヴィネガーの丸い酸味の中で、溶けあう、「コートドール」斉須シェフへオマージュした皿。
寛文5年堂の生うどんの優しい食感とハタハタの香ばしさが出会う、味が濃いが丸い、郷土料理の温かさが伝わる料理。いずれも秋田の土と海を、強く感じさせる料理である。
根底に流れるのは、自然への敬意であり、食べる人と生産者のことを、思いはかりながら作られた料理である。
その上に、おいしいと思い取り入れた他の国のエスプリが、図らずも日本料理の可能性を広げていた。
一昨年の11月に秋田に移った「J一行樹」に訪れた時には、これからやられる新しい店の展望のこと話されていた。
新しい店名のJは、角館に戻ってやっておられた「じん市」のJであり、自分の名前が続いて「樹」は、奥さんの由樹さんの名前からとったんだね。
今年1月になり、今の場所を離れ、2月からの新しい店へと厨房機器を移している最中のことだったという。
1月12日、高橋一行さんは、突然天に召されてしまった。
僕より8歳年下だから、55歳だった。
高橋さん、また生産者の話を聞きたかったなあ。
高橋さん、よく笑って楽しい奥さんと、またバカ話がしたかったなあ。
高橋さん、僕が料理を褒めると、眼鏡の奥で可愛い目が恥ずかしそうに瞬きする、その笑顔は、永遠に心に焼きついてます。
秋田県、いや日本の損失である。
もうこんな料理人は現れないかもしれない。
心よりご冥福をお祈りします。