「智映」

食べ歩き , 日記 ,

私たちは「魚の国の人」である。
世界のどの国の人よりも、魚のことを知っている。
この店に来るまでは、そう思っていた。
だが、「智映」で魚料理を食べると、いかに今まで魚の上っ面しか見ていなかったことを、思い知る。
鯛やマグロ、サンマや鯖、イワシやイサキなど、誰でも知っている魚でも、「ヘェ〜こんなおいしさがあったんだ」と、未知の魅力を発見する。
僕が知る限り、こんな日本料理店は、他にない。
「智映」の店主は、北山智映さん(39)で、武藤啓司さんと二人で切り盛りしている。
北山さんが、料理を志した20代後半の頃は、イカの皮を剥いて調理することも知らなかったという素人だった。
だが、魚が好きだった。
誰よりも魚を愛していた。
いろんな店で魚料理を食べるたびに、もっと違う魅力がこの魚にはあるのになあと思ったという。
修行経験はなかったが、日本料理の基本は、徹底的に学んだ。
これほど本を読んでいる料理人は、そうはいない。
既成概念にとらわれず、目の前にある魚ことだけを考えて、惚れた持ち味を、どうしたら活かせるだろうかと、虚心坦懐に考え抜いた。
ある日、二つ星のフランス料理店のフランス人シェフをお連れしたことがある。
彼は帰り際にこういった。
「衝撃でした。なにより魚だけと向き合って、愛し、料理しているのが素晴らしい。僕も独創的な料理をやっていて、評価もいただき、自由に見えるかもしれません。でも多くのしがらみがあって、拘束されている自分がいる。自由に、自分の思うままに羽ばたいている、あなたが羨ましい」。
彼女の作る料理は、どんな食通だろうと、出会ったことがない。
「黒ムツは、おろすと肉汁が流れ出てしまうので、鱗落として、丸焼きにするね」と言いながらは、加熱→余熱→加熱→余熱という火入れで仕上げた。
黒ムツは味がぼんやりしているので、わさびと醤油につけて食べろという。
食べれば「しっかりしろい! お前は本当はうまいんだ」と、わさびが叱咤して、本来の滋味をじわじわと舌に乗せてくる。
「刺身は一番いい厚みがそれぞれの魚で違うの」。
そういって引いた「マゴチの刺身」は、最適な厚みに切られ、一枚ずつ湯を潜らせ、自家製蝦醤油を一滴垂らした煎り酒を塗る。
生の時は素っ気なく、火を通すと野暮ったくなるマゴチは、こうして色香を灯す。
噛めば、柔らかい甘みが広がって、その余韻がいつまでも続く。
「この時期のメイタガレイがマコガレイより好き」と言って出してくれた「メイタガレイのお造り」は、和芥子とマスタードを合わせた辛子醤油に和えただけで出された。
しかしどのくらいの厚さに、どの方向から切ったら生きるか、計算されているのだろう。
辛味に刺激されたメイタガレイのしぶとい旨味が、口を満たして、ため息が出る。
「とり貝」は、炙って出すところが多いが、彼女はさらに研究した。
結果、白い内側を5秒、黒い外側を2秒間、炙って出した。
食べれば、色気で誘うものの、身体は許さないわよという、垢抜けた、張りのある色っぽさがある。まさに粋な味である。
「インドマグロはこうすると美味しいの」と、得意そうな顔して作ってくれた、軽く味噌に漬けた「インドマグロの刺身」は、甘い色香を膨らませながら、口の中でくるくる舞う。
舌にしなだれ、ねっとりからみあっては、消えていく。
あとに残るは、酸味の影。
舌の両端から口の奥に向けて、きれいな酸味があって、さっきまでの蜜月を夢にする。
「サザエ」は、塩麹漬けにしたウニと抱き合わせた。
すると、いつもは磯の香りだけあって、味は素っ気ないサザエが、色気を醸す。塩麹漬けウニは、生のウニを食べた時の尖った甘みがなく、熟れて丸くなった甘みが、サザエに艶を与える。
どの料理も何気ないようでいて、既存の魚料理法を分析し、嫌な部分を隠し、長所を伸ばす料理を、日々悩みながら徹底して考え抜き、緻密に計算されていた。
ある。
魚料理だけでない。
畏怖を感じさせる神秘を伴った「松茸の昆布〆」や、それぞれの味わいが明確にしながら、汁の味が複雑ながら、どこまでも優しい、メヌケのアラでとったと上品なだしに、和歌山の白味噌と福島の納豆っぽい味噌を少し合わせた「根菜汁。
収穫してからしばらくたつのに、今摘んだばかりかのような香りがあって、味が丸く、心を温める「うすい豆の煮浸し」など野菜料理にも才を発揮していた。
その料理を、もう食べることが叶わない。
料理だけでなく、食の未来をいつも憂いて、様々なアイデア、やりたいことがあったようです。
僕にとっては、いつも勝手な悩みや妄想を聞かせられる、やんちゃな妹であり、尊敬する料理人でした。
彼女からは、たくさんのことを教えてもらいました。
実は官能小説のようだと言われる僕の文体も、彼女の料理と出会ったことで、生まれていった。
彼女が突然いなくなったことは、僕にとって喪失だが、料理界にとって、取り返すことも、誰かが代わって成すこともできない、大きな喪失である。
あんな唯一無二の料理を作れる人は、もう出てこない。
彼女と彼女の料理を一生忘れない事、食べたことがない人にも伝えること。
それが僕らのできる唯一のことだと思います。
謹んでご冥福をお祈りいたします。