大輪の花が咲いている。
もう一生、5月に咲く牡丹には出会えない。
そう思うと、涙が滲んだ。
数多くの割烹で、椀の中に咲く牡丹を見てきたが、これほど立派でふっくらとした姿は見たことがない。
「この時期の鱧は、まだ脂が乗っておらず、皮が硬いので、骨切りできるか心配でした」。そう森川さんは言われた。
骨を断ち切るだけではない、皮の半分まで包丁を入れるので、硬い時期は、神経を使う。
切る幅も狭くし、葛は夏の倍打って、柔らかく感じてもらわなければならない。
つゆの香りを嗅ぎ、一口飲む。
濃密な味わいが、舌を包み込む
塩味や薄口が濃いわけではない。
昆布全体の3割だけに存在する純粋な滋味だけを引き出した、濃さなのである。
葛打ちされた鱧を崩し、口に運ぶ。
熱々の鱧は、噛むまでもなく、ふんわりとくずれ、儚い花弁となって散っていった。
ほのかな、品のある甘みがゆっくりと広がり、春の陽だまりとなって、心をなだめながらとどまっている。
穏やかな慈愛に広げながら、奥底には、凛々しい生命力が息づいている。
そう。
つゆの濃さは、鱧の凜とした生命力に拮抗するしたたかさなのである。
やがて牡丹鱧はなくなり、余韻だけが残される。
空のお椀に残る静寂に、無常が漂う。
与謝野蕪村は、
「牡丹散りて 塊(つち)空間に 立ち去りぬ」と、大輪の牡丹が散った後に、花が占有していた濃厚な「空間」だけが取り残された喪失感を描いたが、まさにその心情が湧く。
「浜作」の「牡丹鱧」は、谷崎潤一郎がことに好んだという。
漆黒のお椀と純白の鱧に、暗い座敷の隅で、仄白い光を吸い込むように咲く、白牡丹を重ねたのだろう。
『陰翳礼讃』を記した谷崎らしい好みだが、黒より朱塗りのお椀を好んだという。
おそらくそれは、脚のフェティシズム(触覚)への美を求めた、谷崎の感性だったのかもしれない。
牡丹鱧の幾重にも重なる花弁の折り目は、高貴な女の太腿の肉づきを想起させ、花びらの奥の暗がりに、妖しい深淵を見たのだろうか。
そうであれば、華やかな朱塗りの椀の中にあってこそ増長する艶というものもわかる。
改めてこのお椀を、その視点から見る。
「百花の王」と呼ばれる、牡丹の圧倒的な華やかさと気品の中に、濃厚な情欲を感じて、ぞくっとするのであった。
京都「浜作」にて
アスパラガス





