花いち 中編

食べ歩き ,

前回より続く。
この品書きを見て、疼かない人とはお友達になれない。
お造り、つまり銀蔵造りはこうだった。
細かい包丁目を入れられて、丹精に積み重なれられたヤリイカは、穏やかな甘みを流し、棒状に切って、織部に立てて盛られた太刀魚は、春のひだまりのように優しい。
ざっくりと盛られた湯引きにした鯛は、皮目を下にして噛むと、皮と皮下のコラーゲンの旨みが、じわりと舌に広がっていく。
石畳のように積まれたイワシは、じっとりと甘い脂が口の中で溶け出し、それを生姜が、引き締める。
「生姜がおいしい」と、口ずさむと、「おろしたてじゃなくてはね」と、女将さんがニヤリと笑う。
そして「辛子つけて醤油に落としてください」と、言われて出される炙りサワラは、わざと雑に盛られていた。
皮の香ばしさに顔が崩れたj瞬間、身は空気を含んだようにふわりと崩れ、品のある甘みを滲ませる。
もうこれで、一合半はいく。
次は、「タコと春子のゆず酢」である。
柚酢の柔らかさが、春子の切なく淡い甘みを生かす。
タコの薄さが、春子のしなやかさを思いやっている。
「水茄子と貝柱の生姜味噌」は、平貝と水茄子を豆味噌地出会えた料理で、それぞれにカットされた大きさの妙が、出会いの喜びを生んでいて、しみじみとうまい。
そして「覚弥(かくや)」である。
沢庵を考案した、覚弥和尚が考え出したとされる料理である。
沢庵を薄く桂剥き!にし、細切って、同寸の細さに切った胡瓜と茗荷、胡麻を合わせた料理である。
「切る」技術が生み出した、芸術的な料理でもある。
細く補足切られた野菜は空気を含むようにあえられ、皿に鎮座している。
「シャキッシャクッ。カッカリッ」。
歯の間で小さな音が弾む。
胡瓜のみずみずしさ、茗荷の爽やかな香りと刺激、沢庵のしぶとい塩気、胡麻の香りが一つになって、舌を洗う。
そうまさしく清浄なる味わいが、都会の汗と心の汚れを落としていくのだった。
名古屋「花いち」中編、以下次号へ。