メバル讃歌2

前号より

メバル料理の王者といわば、やはり煮付けである。

この時期、代々木の「正一」に出かけると、コースの最後にメバルの煮付けが登場する。

大皿に盛られたメバルは、口をくわっと開けて、こちらを睨む。黒メバルだろう。皮の黒と煮汁の鼈甲色が溶け合って、息を飲ませる深さと艶やかさだ。

その皮に数条入った包丁目が弾け、皮を押しのけるように肉が盛り上がっていて、早く食べろと誘っている。

「いただきます」。

と、心で唱えて箸をつければ、ほろりと身が崩れて、舌に甘い味わいがほどけていく。

滑らかながらたくましい筋を主張する身肉が、プリリと踊る。

顔を崩して、「うーん」と一唸り。

お相手は神亀のぬる燗だね。

傍らに添えられた肝がまた曲者で、あんきものような濃密が、こっくりとした煮汁とあいまって、舌にしなだれかかってくる。

ここで「ちきしょう」と一言。

片手で額を叩いて盃に手を伸ばす。

酒と肝を口の中でねっとりと出会わせて、目を閉じて余韻を楽しむ。

筍、蕗、新玉ねぎや新じゃがいもと、一緒に炊いた春野菜も煮汁色に染まって、メバルの情けが染みている。

メバルの煮付けは、赤ムツやキンキほど押し出しが強くなく、カレイのように控えめではない。

剛毅の中に品性を漂わす、煮魚界の人格者である。

あるいは凛々しさと可憐を持ち合わせた大和撫子か。

なんてえことを思い浮かべながら食べるメバルの煮付けは楽しい。

思えば、様々な土地で出会ったなあ。

若い頃、佐渡の漁師宿で食べた煮付けは、丸々と太っていて、食べれば締まった肉質が、挑むように迫ってきた。

広島からの帰り道に寄った、尾道の東山という小料理屋の煮付けは、濃い煮汁と競い合うように味わいが強く、ぐいぐい滋味が舌に乗ってきた。

確かレンコンや里芋やインゲンが添えられていた。

佐渡のそれとは違い、激しい強さが感じられるメバルだった。

吉田健一も瀬戸内でメバルの煮付けを食べて、「日が当たっている野原が平凡な眺め以上に瑞々しいものであるのに似ていた。中略、その日その日のよさが我々の生命であることをめばるは気付かせてくれる」と、書いているように、瀬戸内メバルは格別なのだ。

京都「十両」で食べたメバル煮付け定食は、脂がのって、ご飯が猛烈に恋しくなった。

煮汁がうっすら染みた、赤い万願寺唐辛子、南瓜、里芋、大根、牛蒡、茄子といった京野菜の面々が土の香りを伝えて、メバルを高みに持ち上げる、天下一品の定食だった。

ご飯を呼ぶのは煮付けだけではない。

塩焼きでも力を発揮する。お奨めは麹町の「ゆたか」である。

さあどうだいとばかりにヒレを立てたメバルに、焦げは一点もなく、皮はパリッと焼きあがり、大胆な塩加減によって身はしっとりと甘い。

一口ほおばれば、ご飯だご飯だと叫びたくなる。

うん、日本人に生まれてよかったなあとうなづく、メバルの塩焼きである。