「なにもなくて、すいません」。

食べ歩き ,

「なにもなくて、すいません」。
食後に料理の感動を伝えると、酒井さんはそう言われて、申し訳なさそうな顔をされた。
いや違う。
かつての弟弟子で、一緒に「招福楼」で働かれた、東京で随一とされる料理人は言った。
「酒井さんは、地味な食材だけでなく、普段はほかしてしまうような食材や、食材の屑からもご馳走を作れてしまう、本当にすごい人です」。
その話を聞いた酒井さんは
「そう言われてもね。褒められているのかどうか」と、照れ笑いされた。
枝豆、ヤリイカ、松の実、茸、メダイ、玉ねぎ、ニラの花、鯖、切り干し大根、梅干し、メジマグロ、インゲン、かぼちゃ、トマト、茄子、大豆、鞍掛豆、くるみ。
確かに今日いただいた野菜や魚に、派手なものはない。
ほとんどが近隣から、昨日今日届いたものであり、食材が少ない時の為に、遠方から取り寄せた高級食材はない。
1日1日採れたものだけで料理を考え、整えた、一日限りの料理である。
しかしそれが我々の前に現れた時、心は震え始める。
背筋が正され、舌は清められ、普段我々が接している食材なのに、驚くほどの生命力と滋味が宿っていることに、気づかされる。
これこそが料理である。
料理が人間に与える力であり、幸福である。
幸福とは、さりげなさにあってこそ、輝くのではないだろうか。
「通りすぎる料理が作りたいんです」。そう酒井さんは言われた。
エラソーな言い方だが、もし料理を仕事として志すなら、この料理を食べて、深く深く考えて欲しい。
孤高なる清さと、崇高なる品に触れて欲しい。
地味ながらも、磨きに磨かれて鋭く輝き、芯に澄明を