路地に闇が忍び寄る。
夜が舞い降りた石畳に、大きな提灯が灯る。
「あなご」と、墨痕鮮やかに書かれた文字が手招きをする。
ガラス戸を開けて、「こんばんは」と声をかけた。
厨房に立つご主人が、何もいわずににやりと笑う。
またこの店に来た。
来ることができた。
「もう俺も歳だからね。いつ店を閉めるかわからないよ」。
それが口癖のご主人だが、いつも変わらず背筋の通った料理を出してくれる。
料理は、もう東京では食べることもかなわなくなった、江戸料理である。
気取りのない、こっくりとしたうま味を忍ばせた料理である。
先代からの味を、狷介孤高に守り続けている。
まだ連れが来ないが、先にビールを頼む。
すると茹でそら豆が出された。
「これ突き出しじゃないよ。新豆が美味しそうだったら自分が食べるように茹でたん。でも牧元さんに出したからなくなっちゃったよ」と、嬉しそうに話す。
しっかり茹でて、豆の甘みをひきだしたそら豆がうまい。
やがて連れが揃い、黒板に書かれた品書きから、「芝海老の唐揚げ」、「アイナメの煮こごり」、「蒸し鮑」を頼んだ。
いつも「ヒラメの昆布締め」を頼むのだが、珍しく今日は消されている。
すると、ご主人が言う。
「ヒラメは食べないのかい?」
「あるんですか?」
「あるよ」と、当然だと言わんばかりの口調で言われる。
ヒラメもお願いする。
この店は、年中ヒラメの昆布締めを置いている。
しかし驚くのは、どの季節に行っても味が変わらぬことである。
季節によって味が変わるヒラメを、ピタリと同じ味に着地させる凄みに、舌が震える。
突き出しが出された。
稚鮎の南蛮漬けである。
酢をきっちりと効かせた味が、食欲を開く。
酸味は効いているが、まろやかであり、稚鮎の味が舌に乗ってくる。
世の南蛮漬けは、酢が緩い。
緩いのでぼんやりとした味であり、南蛮漬けにしなくてもいい味であり、食欲の扉を開くことはできない味である。
「突き出しは、お客さんが最初に口にするものでしょ。だからいい加減には作れない。毎日毎日、死ぬ気で作っています」。
以前、真剣な眼差しで発せられた言葉を思い出した。
やがてヒラメと蒸しアワビが運ばれる。
片口には、醤油が入れられている。
これが今の割烹にはない。
大抵は醤油皿に醤油を入れて出す。
醤油差しを置く。
それでは色気がない。
小さな片口から、銘々が好きなように小皿に注いで食べる。
そこにしか風情はない。
ヒラメは厚く切られている。
この厚みも今はない。
食べるとどうだろう。
厚いのでよく咀嚼する。
昆布の旨みの向こう側から、ヒラメの滋味が、甘みがぐんぐん迫って来て、口を満たし、昆布のうま味と渾然一体となる。
薄い切り身では無し得ることのできぬ、味がある。
この厚さは、どうやって生み出したのだろうか。
口腔内の大きさと咀嚼活動を綿密に計算されたかのように、昆布締めは最大限の力を発揮するのであった。
「たまる」