〜会いたくなった時にはあなたはいないVOL4〜
[こんちくしょう、負けるものかってね」。
かわいい目を細め、女将は笑った。
30年前に大病を患い、体重が半分になった。
病院に通うバスの、一段さえも登ることがままならず、バス停に向かう駒込の坂もきつくなった。
だが津軽人の負けん気と粘り強さで、「こんちくしょう」と心にムチを打った。
医者に通いながら毎日料理を作り、接客をし、幾多の客をもてなした。
北沢美枝さん80歳(2015年時)。
根津で津軽郷土料理の店「みぢゃげど」を、35年間営む女将である。
実家の石場家は、弘前藩の御用商人として19代続く津軽の豪商で、JRのポスターにもなった生家は、重要文化財に指定されている。
大勢の使用人を抱え、兄弟一人一人に「あだこ(子守)」がついていたという、名家である。
客を招いての宴席が多く、その際に長女である北澤さんは、家督を継ぐ長子として、祖父、父に続く上座に座った。幼女であっても、馳走を食べ、盃に注がれた酒を飲む仕草もしたという。
料理がしたくて、6歳から台所に入り、小さい包丁をもらい、祖母の手ほどきを受けた。
「差が無いように切りなさい」。
大根や人参を同寸に切るよう、厳しくしつけられた。
むずかしかったが、楽しくてしょうがなかったという。
「みぢゃげど」で出されるのは、津軽郷土料理である。
単なるの郷土料理ではない。
手をかけた、石場家伝承のふるまい料理、客膳である。
噛むほどに味が深みを増す、「身欠きニシン」。
焼き干しの出汁で、柔らかく煮こまれた「でんぶ」。
津軽の土間で蓋をして発酵させた、「鮭の押しずし」。
玉子の黄身と帆立の甘みが心を軽くする、「ホタテの黄味かけ」。
一口舐めた瞬間、旨味と香りに顔が崩れる、「真鱈の子の醤油漬け」。
そして見事な鱈と白子、津軽の根菜を使った「じゃっぱ汁」や「鴨鍋」。
津軽の厳しい自然で育まれた恵みが、口の中でいきいきと花開く。それはまた実直で骨太なおいしさであり、時間と技をかけてこそ生まれた味わいである。
「熟れずしだから、いまちょうどおいしい。海鮭漬けて4週間は当たり前だけど、いま弘前で売ってるのは、ご飯炊いてやってるの。私は食べられない」。
「胡瓜の粕漬けっていっても、東京のような甘ったがれじゃない。そんなもんじゃない、もっとおいしいの」。
「好物? だけど津軽料理さ。生まれたの津軽だし。大きくなったし。季節季節あるべ。旧正月に作る煮なます。練りごみ、鮫なます、かいの汁、とろろまま」。
料理を語り始めると、顔に艶が刺す。
漲る郷土の誇りが伝わって、こちらまでがうれしくなる。
「うまいっ」。
思わず叫べば
「あまい? ああうまいね。サンキューありがと」。
「いっぱいいかかですか」と、お酒を勧めれば、「駄目よ。私にちょっと飲んでって。足りないもん」。
そう笑った顔が、今でも頭の中にある。
写真を撮っていると、「いいばあさまに撮れてる? すましていいとこ撮ってね。でなきゃ、また嫁にいけないもの」。
愉快である。
北澤さんの話を聞きながら飲めば、都会の汗は剥がれおち、憂さはきれいに蒸発していく。
「あんら、ひさすぶりぃ。おいでさまです、牧元さん」の声が聞きたくて、また足を運ぶ。
「津軽料理を伝えられて、ファンが増えることがうれしい。まだ動けるからさ、私有難いと思ってるんだ。色々あったさ。でも人生だもん」。言葉は柔らかい。
だが可愛い瞳の奥に、津軽文化の担い手としての覚悟が、静かに燃えていた。
5年前ほど突然店はなくなった。
行方はようとして知れない。
3年前に重要文化財である津軽の屋敷を訪ねた。
親戚の方が細々と酒屋をやられている。
女将さんの行方を尋ねた。
はっきりは分からないとのことだが、青森に戻られて施設に入られたのだという。
「みっちゃん」
奥さんのことをそう呼んでいた画家だった旦那さんはどうしたのだろう。
「息子が料理覚えてくれたからさあ、津軽料理の伝統は大丈夫さ」といっていた息子さんはどうしたのだろう。
「デリーのカシミールあれ、おいしいね。わたしはまちゃってさあ」
僕も大好きなので、一緒に食べに行きましょうと交わした約束は果たせなかった。
「みぢゃげど」津軽弁で「台所への道」という意味を教えてくれた、時間であり、日本に生まれたことを深々と考えさせ、ありがたみを胸に宿してくれる料理でした。
ありがとうございました。
ああ、もうあのじゃっぱ汁が食べることが叶わないのか。
僕はそう思い、毎冬涙を流す。