その美味しさを、言葉にすればするほどウソになる。そう思う瞬間がある。
鳥取「かに吉」の蟹が、その時だった。
蟹ミソに始まり、おつくり、湯引き、殻を焦がさないように仕上げた焼き蟹、お母ちゃんのゆで蟹、蟹爪フライ、蟹すき、雑炊と続く時間は、「美味しい」と言うのももどかしく、無言のうめき声をあげながら、むしゃぶり食った。
食べて思う。
蟹に気づかせてはいけないのだ。
まだ海の底で、生き続けていると思わせなくてはいけないのだ。
「お母ちゃんのゆで蟹」は、港でお母ちゃんの厳しい目利きで選んだ蟹を、お母ちゃんが茹でる。
湯の温度も鍋の大きさも重要だが、それぞれの蟹に合わせた精妙な茹で時間が大切で、1分短くとも1分長くともいけないという。
茹で上がった蟹は、すぐ食べるのではなく一旦冷ます。
熱々がおいしいのかと思ったが、理由があった。
しごき出した身に、ミソを乗せて食べる。
あるいは、身をしごき出したのだけを食べる。
舌の上に乗った蟹の身は、加熱されているのにまだ水分をたっぷりと含んで、ふくふくと命の気配を膨らませながら、崩れていく。
甘い。甘いがどこまでもエレガントで、触れてはいけない品がある。
甘い。甘いがどこまでも澄み切った、無色の甘さがある。
甘い。甘いがやるせなく、奥底にたくましさが潜んでいる。
生きているみずみずしさがありながら、十二分に甘みが引き出されている。
しかしその甘みは、一辺倒でも、圧倒的でもなかった。
一口目は、食べてはいけないような、いたいけな甘みが静かに流れ、二口目からはじっとりと、より濃い甘みが滲み出してくる。
噛みしめる喜びも与えてくれる蟹なのである。
茹でたてだとこうはいかないだろう。人肌に冷ました蟹だからこそ、この味がある。
だから我々は取り憑かれる。
蟹と命のやり取りをし、その尊さに踏み込んだことに気づき、無言になる。