「きゅうりの酢の物をきちんと作る。高野豆腐や麩を正しく炊く。それができない料理屋や若い料理人が、多くなりました」。そう「浜作」のご主人、森川さんは言われた。
我々客側にも責任があるだろう。
客の誰もが、きゅうりの酢の物など気に留めず、高級食材ばかりを褒め称えれば、誰も手をかけようなどとは思わなくなる。
しかしきちんと作られたきゅうりの酢の物には、目を輝かせるものがある。
ザクザクッと痛快な歯ざわりが、きゅうりを生齧りするよりたくましい生命力を伝え、口の中で響くその音が、夏の到来を知らせてくれる。
それは、キュリを塩もみして蘇らせ、天地を落とし、ヘタに近い硬い部分だけ皮をむき、二つに割ってタネを取り、正確に斜め薄切りにし、多めの塩を打ち、親の仇を取るほど死ぬ気で絞り、土佐酢であえた仕事がもたらした、美味しさである。
青臭さは微塵もなく、土佐酢となじみながらも、みずみずしさを謳歌している。
生よりも生らしく、それでいて生のいやらしさは微塵もない。
京都では、こうした酢を使った料理を、「お壽文字」と呼ぶのだという。
様々な料理の中で、お壽文字はいつもさりげなく、謙虚で、舞台の前面に出ようとはしないが、注意深く食べれば、それが我々の体にとって必要であることを感じ、喜びとなる。
今回の「お壽文字」も、きゅうりだけでなく、恐ろしく手がかかっていた。
エビのむき方、茹で方、冷まし方、正しき黄味酢の作り方、生姜や土佐酢の塩梅、盛り付け方など、すべてに渡って細心の気合が込められている。
食べれば、きゅうり、とろろ、エビ、大徳寺麩、黄味酢、すべてに道理があった。
料理は、だからこそ意味がある。
それだからこそ、心を揺さぶることができる。
素材を活かすとは、ただ単純にあまり手をかけずに尊重することではない。
これからは、心して、きゅうりの酢の物を食べようと思う。
<夏の到来を伝える料理>
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