<シリーズ食べる人>立ち食いそば編VOL3
「おにぎり下さい」。
新橋駅から徒歩十分、立ち食いそば屋の「うさぎや」では、おにぎりを頼む人が、やたら多い。
店は、60代のご主人が切り盛る、カウンター7席の小さな店で、客は大方がサラリーマンである。
見ていると、やたらおにぎりを頼む人が多い。
いやほとんどの客が、おにぎり発注である。
後から来た推定40代前半の作業服男も、30代後半の黒セーター男も、「おにぎり」と頼む。すると、
「今作ってますんで、すぐ出来ますから」と、ご主人が応える。
狭い厨房ではご主人一人が、懸命にそばを作っている。
一体どこでおにぎり作成中なのか。
その時、
「はい、出来ましたぁ」と、入り口開けて、奥さんが登場した。
お盆の上には、たくさんのおにぎりがある。
「お待ちどおさま。梅ですか、鮭ですか」と聞くと、二人とも「鮭」と、同時に答えた。
「すいません。鮭は一つしかないの」と、申し訳なさそうにいう。
黒セーターが「じゃどうぞ」と作業服に譲ると、作業服も「いやどうぞ」と譲る。
結局、「どうぞ」が2往復したところで、黒セーターの断固たる辞退姿勢に負けて、作業服が鮭を受けた。
立ち食いそば屋では滅多に見られない、譲り合い精神である。
僕も無性に食べたくなって、頼んだ。
出来立てなので、ふんわりとして温かく、塩の塩梅もよく、米もうまい。
こりゃあみんな、おにぎりを頼みたくなるな。
頼んだ海老かき揚げ(海老かイカを選べる)とわかめを乗せたそばは、かき揚げの衣が香ばしく、わかめに磯の香があって、優しい味のつゆと、よくなじんでいる。
この店のご夫婦みたいな、自然体のそばである。
黒セーターは、まだ未練があるのだろう。
作業服が食べる鮭おにぎりをチラ見しながら、おかかのおにぎりを頬張っていた。
作業服は先に食べ終わると
「譲っていただき、ありがとうございました、美味しかったです」と、黒セーターにいう。
「よかったです。次回は僕に譲ってね」と、黒セーターが冗談で返す。
それを見ていた奥さんが
「すいませんねえ。今度は鮭を多く用意しておきますから」という。
帰り際
「ありがとうございます」と、心がこもった声が、ご夫婦からかかった。
日常の些細な出来事にこそ、人間の機微が宿っている。
それを感じられる日々が、早く来ますように。