<シリーズ食べる人>立ち食いそば編Vol4
両国駅東口から歩いて10秒、横綱横丁界隈は、立ち食いそばの激戦区である。
なにしろ駅側には、東東京にチェーン展開する人気立ち食いそばの「文殊」があり、「しなの屋」という店もある。
そんな通りに店を構えるのが、「富そば」である。
激戦区に店を構えるだけあって、看板には、「コシの強さが自慢です。味自慢生めんそば」と、自信のほどが謳われている。
切り盛るのは、ご夫婦二人で、手ぬぐい鉢巻をした、元天ぷら屋というご主人が、そばを茹で、奥さんが完成させる。
朝八時、客は私一人だった。
かき揚げそばに、小海老天を注文した。
つゆに浸かりながらもカリッと歯触りがいい、かき揚げが心地いい。
たっぷり入った玉ねぎが甘い。
小海老天は、小海老と呼ぶのが申し訳ない大きさだった。
そばのコシは、謳い文句ほどではないけれど、つるつると口に入る食感で、勢いが出る。
その時、茶色のスーツに白シャツを着た、細身の女性が一人入ってきて、めかぶそばを注文した。
ちょっと古いけど、真行寺君江に似た女性は、長い髪を、後ろで束ねて、そばを待つ。
目に潤いがあって、どこか寂しげな目線に焦らされる。
めかぶそばが運ばれると、静かに食べ始めた。
真ん中に落とされた黄身を、箸先でちょんと突いてから食べ始めた。
食べ方は早い。
だが、品がある。
そばをたぐる本数が、これ以上でも以下でもない。
一定本数を手繰りながら、二回食べては、一息つく。
見事である。
彼女は毎朝ここでめかぶそばを食べてから、仕事に赴くのだろうか。
めかぶのアルギン酸によって、デトックス効果を得、仕事に弾みをつけようというのだろうか。
彼女の薄い唇に、めかぶとそばが、同時に吸い込まれていく。
その瞬間、口元あたりのめかぶが、艶めかしく光沢を放った。
唇が濡れて、白い彼女の頬が、ほんのり赤くなっていく。
つるるる。
僕と彼女。
つるるる。
僕と彼女。
二人しかいない静かな空間に、彼女のすする音が、小さく響き渡る。
ほかに客がいなくてよかった。
僕は、立ち食いそば屋で初めて出会う、色っぽい光景への幸せを、ゆっくりと噛みしめた。
その後「富そば」は、閉店した。
あの女性は今、どちらでめかぶそばを食べているのだろうか。