「それなら今度の日曜日、秋葉原に行こう」。
始めての秋葉原は、高校二年(昭和46年)のときに、鶯谷の菓子屋の息子の佐藤君とオーディオを買いに出かけたときだった。
我が家が据え置き型旧式ステレオをあきらめ、最新式オーディオセットを導入するという決断を下したからである。そこで詳しい佐藤君に相談したら、任せとけとあいなった。
佐藤君は慣れたもので、大手の電気店には向かわず、ラジオ会館近くの、屋根が低く狭い、トンネルのような通路をひょいひょいと抜けていく。
周囲には蛍光色のポスターが貼りめぐらされていて、ホーロー抵抗だの、200W/56Ωだの、マッチングトランスだの、異次元の言葉がひしめき、外国に連れ去られた気分だった。
やがて壁面にぎっしりとアンプやスピーカーを積み上げた店に着いて、交渉に入る。
マイクロのプレーヤー、ラックスのアンプ、トリオのチューナー、それに聴く音楽はほとんどがロックなのに、「ストリングスの鳴りが気持ちいいよ」という店員の言葉にのせられて、山水のスピーカーを購入した。
なにかオーディオ通になった得意げな気分で、駅に張り付くように佇んでいた小さきラーメン屋「いすず」(2000年6月閉店)に入り、濃い醤油味のスープと細く縮れた麺を「うまいなぁ」と言い合いながらすすった。
だがその後、「ステレオ」も「無線と実験」も購読せず、ラジオを組み立てることもなかったので、秋葉原とは次第に疎遠になっていた。
再び秋葉原と付き合いだしたのは、「赤津加」を知ってからである。
それはビルの谷間に取り残された、昭和初期の面影を残す居酒屋だった。。
創業は昭和29年。
かつて神田佐久間町と呼ばれていた時代の粋が残されている。
電子工作マニアやアニメマニア、コンピューターマニアやアイドルマニアとはまったく無縁の、下町の人々に愛され続けてきた情趣が、胸を打つ。
風格漂う店内で、艶を帯びたコの字のカウンターに座り、やっちゃ場から贈られたという短冊板に記された料理を眺めて一悩み。
ゆったりとやれば、都会の垢がはらりと落ちて自分の時間が戻ってくる。
串カツやぬたを肴に、菊正宗を傾ける、極上の時間が好きになった。
この店を目指すなら、上野の北東まで足を伸ばし、秋葉原の地名の由来となった鎮火神社「秋葉神社」にお参りし、合羽橋道具街や御徒町韓国街なぞを覗いてから、秋葉原に入る散策コースがお奨めである。
飲食店といえばもう一つ、昌平橋の「萬楽飯店」に、はまった時期がある。
生来の凝り性が災いして、ずらりと揃えられた中国酒を片っ端から飲んだ。
腸詰やほうれん草焼そばをつまみながら、年代ものの紹興酒でうっとりと酔い、五粮液酒で気勢を上げ、虎と鹿とオットセイのペニス入り三鞭酒で発奮し、トカゲ入り馬髪蛇酒で記憶をなくした。
他では、低温でじっくり揚げた「丸五」のとんかつや、昭和18年創業の昔風な「松楽(しょうらく)」(2021年閉店)のラーメンとシュウマイ、「たん清(たんきよ)」で上ロースやハラミを楽しむ日もあったが、社会人になってからの秋葉原は、菊正宗と中国酒に染められている(単に飲兵衛というだけですが)。
最近は、市場視察と銘打って「@ホームカフェ」に出かけ、メイドからミルクや砂糖の代わりに愛情を注入してもらったり、担当しているハレンチ☆パンチというアイドルグループが行うイベントに出かけることなど、秋葉出没率が増したが、最後に向かうのは、「赤津加」や「一の谷」や「萬楽飯店」である。
電脳都市の谷間でひっそりと飲む一人酒。
おじさん化といわれようとも、この楽しみだけは譲れません。
