目黒「とんき」

とんかつ自伝 Vol3

食べ歩き ,

なにより驚いたのは、清潔で、明るく、油の匂いがしない。

半そでの、汚れのまったくない白いユニフォームを着て、きびきびと働く男女は、動きにムダがない。

やがてその一名がやってきて聞くことには、

「いらっしゃいませ。ロース、ひれ、串カツ、どれになさいますか?」。

表情が柔らかで、「よくいらしゃいました」という気持ちがこもっている。

「ろーす」。

初心者とばれぬよう平静をよそったが、ばれたに違いない。

ビールも頼みたかったが、タイミングを逸した。

やがてどうして分かったのだろう、順番が来て席に案内された。

右も左もとんかつ。

黙々と食べ、黙々と食べ終えた客たちは、満足感で顔が火照っている。

厨房も活気があって、リズミカルだった。

職人が軽やかな手つきでかつを切り、皿に載せた奴、あれは僕のロースに違いないと見ていると、案の定すみやかにこちらに向かってきた。

白い皿に鎮座したとんかつとキャベツ。

皿の手前に盛られた辛子が鮮やかだった。

たまらずソースをかけ、ほおばった。

「んぐっ」。

うめいた。

衣の香ばしさに目を細め、肉の存在感にのけぞり、ご飯や豚汁おいしさに唸った。

こんなおいしいものがあったのか、ちきしょうである。

この店の大ファンだった池波正太郎が記した、「皿の上でタップダンスでも踊りそうに、生きがいいカツ」は、口の中で跳ねて肉汁を滴らせ、圧倒する。

元気がよすぎて衣がはだけ、肌をさらしてしまうのが難であるが、時々繕ってやる。

後日、この衣はがれ現象が食通の間で賛否を呼んでいることを知ったが、否定派もサービスの素晴らしさをもってして、大目に見ちゃうよとしているらしい。

中でもキャベツ補給がすばらしい。

少なくなると、若い女性が走りよって、「おかわりはいかがですか」と、可憐な声をかける。

食通のおじさんたちはこういうのに弱いのだろう(いまの僕も弱い)。

これもまた池波正太郎が書いていたが、常連が、「もう、ここに来たら、バカバカしくて酒場やクラブへはいけませんよ」といったという。

もちろん当時も心奪われ、調子に乗って三回おかわりした。

「まだ一枚いける」。

そう思うほど後味の軽さで、名店のとんかつというのは、こういうものなのかと、一歩大人の世界に踏み入れたような気がした。

充足感にのぼせ、顔が火照った。

すかさず女性から蒸しタオルが手渡された。

やられた。

大人の世界は深い。

とんかつのうまさとサービスの心に打たれた、「とんかつ少年期」の話である。