そこにあるのは静寂である

食べ歩き ,

ふっこは、大人にならんとする勢いを抱えながら、その淡い甘みを舌に落とす。
木の芽酢の酸味と香りが、その滋味を優しく持ち上げる。
そこにあるのは静寂である。
はじかみもなにも添えられぬフッコの焼物は、魯山人の器の上で泰然自若として、自然を表す。
決しておごらず、料理人の意識や都合を押し出さず、自然を手本として精進してきた日本料理の粋が、目の前で佇む。
その潔さは、食材や季節に関する敬畏である。
なぜ若き料理人は、まだこの潔さを持ちえないのか。
いや食べる方も、豪華にごまかされ続けるのか。
アイナメは素揚げにされ、丁字麩とともに碗に仕立てられる。
お汁を一口含めば、淡さの奥に出汁のうま味が凛といて、油の香りが流れ込む。
飲むほどに食べるほどに、アイナメの甘みが汁に流れ出て、高みに登っていく。
丁字麩の素朴さが、アイナメの美しさを輝かし、ここには余計な椀ツマや吸い口などいらぬことを語っている。
一方干しえびと炊かれた小茄子は、出会いものの鮑と合わされ、絹さやの緑が添えられる。
小茄子の拙い甘みと鮑の柔らかな香りが抱き合って、夏が遠くから忍び寄ってくることを伝え来る。
「辻留」の晩春。