「万平」が休みだった。9月いっぱい土曜日を休むという。
電車に乗っている間、「万平」のとんかつを思い浮かべていたから、たまらない。
トプカでカレー、まつやでそば、勝萬も考えたが、こういう非常時にしか行かないなあと考え、「松栄亭」に入り、ポテトサラダとビールに、カツを頼んだ。
店は今、先代の美人な娘さんとその旦那さんがやられている
創業114年、堂々たる老舗である。
ケッコウ混んでいて客層も幅広い。一人親父が、ドライカレー肴に、ビールを飲んでいた。いいなあ。
ポテトサラダでビールを飲んでいると、小柄な親父が一人入ってきた。
「夏目漱石が好きだった料理は、どんな料理ですか?」 68歳くらいだろうか、関西なまりで親父が尋ねる。
「はい。洋風かき揚げといいます」と、若女将がパンフレットを見せる。
「ふーん。中身はなんです?」
「豚肉のコマ切れと玉葱に、玉子です」
「コマ切れか。ならトンカツちょうだい」
「ありがとうございます。ご飯は別になっていますが、おつけしますか、スープとご飯のセットもあります」。
「ライスだけちょうだい」。
やがてカツが運ばれた。衣の上で脂がジッジッと踊っている。
ラードの香りに包まれて、胃袋がグーと鳴る。
親父のところに運ばれた。すると親父は芥子をトンカツの上にたっぷりのせてなすりつけた。
その上からソースをドボドボかけた。衣の茶とソースの焦げ茶、芥子の黄色が皿の上で渦巻いている。
しかしなぜかキャベツには、ソースをかけない。
普段なら、頭に血が上る光景である。
「無礼者! それでは衣のカリカリが最後まで味わえないじゃないか。肉の味が台無しになるではないか。とんかつを愚弄するにもほどがあるわい! そこへなおれ! 」と、怒り心頭に達する場面である。
しかし今日に限って、頭には来なかった。
ソースをかけながら、親父がにたついていたからである。
ちょっと猫背で、一心不乱に、いかにも幸せそうに食べていたからである。
いつものようにソースをかけずにカツを食べながら、僕は、ちょっとうらやましくなった。