四谷 たまる

「あんこう鍋」

食べ歩き ,

荒木町に夜が忍び寄る。
路地の提灯が一つ、静かに点いた。
「あんこう鍋」と、墨痕鮮やかに書かれた文字が呼び寄せる。
かつてここは花街だった。
路地の右手は黒塀で、毎夜三味線の音が絶えなかったという。
色気が漂う街で先代が始めた店は、二代目に引き継がれ、今その二代目も70をとうに超えられた。
「どうやって作るなんて聞かれても、教えない。レシピなんてに書き起こしてもできないもんね。あたしも、親父の作る姿を目に焼き付けながら何度も失敗し、10年経ってようやくなんとかできるようになってきた。要はタイミングだから」。
あん肝、新筍、ヒラメの昆布締め、お新香、あんこう鍋、牡蠣の南蛮漬け。
なにを食べても深い。
なにを食べても、どうやって作ったかわからない不思議がある。
そしてなにを食べても、ここにしかない味がある。