SoLong Vol9
一番無くなって欲しくない店が、閉める。
もしこの仕事をしていなかったら、この2軒にだけ通いたい。
そう思う店の一軒だった。
通い始めてから、30年になる。
今夜は飲もうという夜には、代々木「正一」にいた。
仕事でストレスが蓄積されると、「正一」にいた。
連夜の宴会で舌が荒れてくると、「正一」にいた。
高校時代の友人との再会すると、「正一」にいた。
デートが思いのほかうまくいって、祝杯をあげたくなると、「正一」にいた。
親しい酒徒から久しぶりに電話があると、「正一」にいた。
季節の到来を感じると、「正一」にいた。
信頼する部下をねぎらってやりたくなると、迷わず「正一」にいた。
なんとも居心地がいい。
それも店に入ってから出るまで、ご主人とおかみさんがこちらの気配をうかがいながら、さりげなく気づかってくれているからである。
これこそいい酒亭の条件ではないか。
そしてなにより、酒飲みのツボをちくりと突きながら、絶妙のタイミングで出される料理がたまらない。
皿が重なりすぎることなく、間が開きすぎることもない。
前の料理の余韻に浸って酒をすすり、盃を置くと、ほどなくして次の料理が運ばれる。
突き出しから終いのご飯に至る十数皿が、名投手のピッチングのように、緩急をつけながら淀みなく、食いしん坊心に投げ込まれる。
初めて訪れたのは、一人で、初春のころだったように思う。
マンションの奥でひっそりと佇む店の木戸をあけると、
「いらっしゃいませ」と、ご主人が人なつこそうな笑顔を見せ、着物をきりりと着こんだ立ち姿の美しいおかみさんが、上品な微笑みを浮かべた。
「お酒はなにになさいますか」。
おかみさんが柔らかな口調でたずねる。
「最初は冷たいのをいただきます。さらりとした飲み口で、香りが強くないものを」とお願いすると、三千盛の純米酒が運ばれた。
突き出しは茹でたての空豆。
青磁小皿に深い青緑が映える豆は、塩分がぴたりと決まって甘く香り高い。
最後の一粒を食べ終えると、イカと筍のぬたが登場し、やがて、床節と菜の花の煮物が運ばれた。
春の味わいに目を細めていると、お造りが出される。昆布のうまみに淡い滋味が優しくなじんだハタの昆布〆に、イカの細造り、ミル貝、イカの子。
ああ酒が進む。
酒を神亀のぬる燗にかえたところでお椀が出た。
ふたを開けると木の芽が香り、春が漂った。若竹椀である。
「はぁー」。
出し露を口に含んで、目を閉じ、感嘆のため息をもらすと、ご主人がうれしそうにはにかんだ。
まがうかたなき浪速割烹の露である。
濃密でふくよかなうまみが食欲をあおり、もっと酒を飲めえと誘う浪速の味である。
そんな煮物椀の真骨頂は、秋から冬に出される船場汁だろう。
大阪の問屋街である船場から生まれた実質主義の固まりのような椀で、本来は一塩鯖のアラと大根による椀である。
ここでは趣向を変え、甘鯛の一夜干しや鯛の中骨を焼いて蕪と合わせて仕立ててくれる。
骨や身からにじみ出た滋味が、出汁となじみ、蕪と交流し、深々となって胸を突き上げる。
背骨が溶けてしまう、陶然がある。
椀の次は、小皿が続く。
鯛皮と胃袋の湯引きと鴨頭ネギのポン酢あえ七味がけ。
蕗の梅干しソース和え。醤油、味醂、酒に漬け込んだホタルイカの炒め。のれそれの玉味噌。サヨリ白子。メジマグロ皮のワケギ紫蘇巻焼き。鯛皮とまぐろ。貝のヒモとワケギによるぬた。豆腐味噌漬など、三皿ほど出されるのだが、酒飲みはこの辺りでもう、骨抜き状態である。
顔は崩れ、体は上気し、へなへなと笑いながら、盃運ぶ手が加速する。
そしてずわい蟹などの蒸し物か、こっくりとした味つけが気分を穏やかにする、沖メバルやムツ、メヌケと野菜の煮つけへと続く。
ここで酔った頭は気づく。
料理の間やツボを心得ているだけではない、味の芯にご主人の誠実が染みているからこそ、心地好く酔い、安寧を呼ぶのだと。
あるとき、店名の由来を聞いたことがある。
「正」はご主人の名前から、「一」は大阪修行時代に感動した、京都の「南一」にあやかってだという。
青菜の胡麻和えやうすい豆の浸しといった質素な料理が、恍惚的においしかった「南一」は、ケの食材を何百年に渡って敬意を払ってきた、京都人の知恵の凄みが宿っていた。
「正一」の料理には、そんな精神に一歩でも近づかんとする愚直さがあって、それが心を和ませるのだと、思っている。
代々木「正一」は、今夜、35年の営みに幕を降ろす。