SO LONG VOL3
大女将の笑顔に会いに行く。
目を細めた柔和な表情の中に、愛らしさと人間力を漂わせた、大きな笑顔に包まれたくなり、店に出かける。
銀座「本店 浜作」には、そんなお客さんが多いのではないだろうか。
「毎日、毎日お客さんとお話しさせてもらうことが、もう楽しくて。いつも元気をいただいております」。
「浜作」は、板前割烹の祖である。
座敷で食べることが当たり前であった大正13年に、お客さんの目の前で捌き作る「板前割烹」を、初代が大阪は新町に開店し、大評判となった。
昭和三年に銀座に移転し、関西割烹の魁となる。
菊池寛も綴り、数多くの名士や文士が訪れる高級料理店に、栗子さんは昭和20年に嫁いだ。
高松の旅館の娘として生まれ、県有数の女子高校の秀才であった彼女に縁談があり、上京して結婚と相成ったのである。
恐らく才色兼備を認められたのであろう。
二代目と結婚することとなった。
冬の日、一人で東京に着いた彼女に、父となる初代が作ってくれた、ふぐのお造りとふぐの白味噌椀は、今でも忘れられない、生涯一の美味だという。
結婚式は、昭和二十年一月という戦局が厳しいさなか、帝国ホテルで行われた。
戦時中ゆえに栗子さんのご両親も参加できず、浜作の客であった、岩波書店の岩波茂雄や、独文学者の小宮豊隆、哲学者、安倍能成などが出席し、祝ってくれたという。
しかしそれからが大変である。
右も左もわからぬ東京で、家事と店の手伝いをしなくてはいけない。厳
しい初代の女将さんや、ベテランの仲居さんなどの小姑もいる。
「わからぬことだらけで、相当苦労されたのではないですか?」。そう尋ねると
「それは若かったから、みんな水に流れてますわ」と、ほほ笑まれた。
「負けず嫌いで、勉強が好きでした。でも学校じゃ社会勉強はやらないでしょ。なにも知らないから、ただただ、母の仕事の後ろ姿を見て、やってきたんです」。
「勉強になりました。これは、浜作大学にしたらいいといったら、父がいいこと言うなと笑っていました」。
真面目さと負けん気、明晰さと快活で、一流割烹の女将としての仕事を、瞬く間に会得していったのだろう。
「お金や着物には興味がない。仕事一筋。とにかくこんな真面目な人はいない」と、息子さんである現在のご主人、塩見彰英さんも言われる。
先代の女将さんも、真面目な方で、料理の神様のような方だったという。
「身を粉ではなく、骨を粉にして働きなさいと、よく言われました」。
今は大女将に、息子さんの奥さんである女将、そして孫娘が若女将として働いている。三代が店に出られている料理屋は、そうはない。
「孫娘には、いつも“女らしく”といっていますの」という栗子さんに、「女らしくとはどういうことですか?」と、尋ねてみた。
すると「真面目にやることです」と、答えられた。
お客さんは、政財界の大物、歌舞伎役者、文士など、一流の人物ばかりである。
そうした見巧者の如き、客の達人に見せる女らしさとは、人間としての芯が大切なのであろう。
一流のお客さんから言われた言葉は、「やり始めたら、途中で辞めずに最後までやり抜け」という戒めだったという。
「どんなお仕事にも、辛抱はついて回る。辛抱やめたらあきませんね。続けていくことよね。そうしたらいつの間にか90を越えました」と、また愛らしく笑われた。
その笑顔には、継続という力が響いて輝き、我々を魅了するのである。
この原稿を書いたのが2014年だった。
去年で 101歳を迎えられたことになるが、栗子さんは永眠なされた。
心からご冥福をお祈りいたします。